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コロナで出張できないけど…、昭和オッサンが振り返る若き日の楽し過ぎた出張(連載:中川淳一郎の「博報堂浦島太郎」)

2020.07.09
ネットニュース編集者・PRプランナーの中川淳一郎さんが18年ぶりに博報堂に帰ってきた! 久しぶりの古巣を歩きながら、中川さんが感じた変化や懐かしの話を自由に語っていただく連載・第11回。今回は、中川さんにとってもっとも思い出深い「出張」を振り返ります。

 リモート会議が博報堂でも定着し、社内打ち合わせでも実際に顔を合わせることはすっかりなくなった。7月3日、約3ヶ月ぶりに会議室での会議が行われたが「まぁ、この方が意見は活性化するな」とは思った。何しろ、ネット会議の場合は、「誰かが何かを喋ろうとするな……」というタイミングが読めない。実際の会議だと各人の間合いがよく分かるため、余計な声被りやら「どうぞどうぞ」「いえいえ、○○さんからどうぞ」のような野球用語で言うところの「お見合い」的な状態になることが少ないのだ。

 となれば、当然県をまたぐ出張などは不要不急の外出でしかなくなるわけで、出張をした、という話はとんと聞かなくなった。ここからは回顧主義的になってくるものの、閑話休題、自分にとってもっとも思い出深い出張について振り返ってみる。

 私の配属されたCC局(現PR局)は、就職氷河期だったこともあり、新人は1996年に1人、私が入った1997年も1人だった。そして1998年はなんとゼロ! 結局後輩ができることなく2年間も最若手でい続けた。しかも1999年はクリエイティブやプランナーの部署に配属される新人が受ける「MD研修」が9月まであるという長丁場に。まさかの2年半もの間もっとも「お子ちゃま」だったのである。

「中川もそろそろ後輩が入ってきた方がいいよな」という声はあったものの、何をするにしても自分がもっとも下っ端だった。そんな中やってきたのがY君とMさんの2人の新人だ。後輩が一気に増えた! と喜んだのだが、2人とも私とは別のチームに配属されたため、接点はあまりなかったのだが、私が4年目となった2000年、ついにY君が我がチームに異動してきた。

 すぐに我々はコンビを組むようになる。彼は身長182cmのイケメンでホスト風のルックスだったため、「ホスト刑事」と呼ばれていた。いや、これまたアホな話なのだが、1999年、嶋浩一郎さん(現・博報堂執行役員)の指揮下、我々CC局の若手は「Gメン99」というプロジェクトを行っていた。「G」とは「合コン」のGである。これは「1999年、99の職種の人々と99回合コンをする」という壮大なるプロジェクトで、夜になるとホワイトボードの行先には「G」と○で囲んで書かれてあった。オフィスを出る時は「捜査行ってきます!」と言うのである。

 嶋さんの言い分としては、「我々はメディアに対して常に新しいネタを売り込む立場にある。よって、最新情報のアンテナは高く持っておく必要があるため、様々な職種の人の話を聞かなければならない」というもので、私も「確かに」と思っていた。局長もこの活動のことは容認していた。実際、この「Gメン活動」がきっかけで仕事が発生したこともある。

 各刑事(というか局員)には『Gメン’75』に登場する刑事のようにあだ名がついており、Y君は「ホスト刑事」で、宇宙工学科出身の先輩は「宇宙刑事」だった。私は当時電気のない東大駒場寮に住み、しかも風呂に入らないことが多かったため「野宿刑事」ということになっていた。

 そんなホスト刑事・Y君と私は一緒にとある食品会社の担当となったが、私は先輩風を吹かせて「おい、Y君、我々は『プラナー』だの『ディレクター』だの横文字の肩書を持っているが、これではクライアントの気持ちが分からない。オレらだけの時はきちんと日本風の役職で呼び合うことにしよう」と提案した。

 その結果、私は「課長」となり、Y君は「主任」となった。本来の博報堂の肩書を一切無視した形だが、会話はこんな感じになる。

Y君:課長! そろそろ出発ですよ! 電車間に合わないですよ!
私:おぉ、主任! よくぞ気づいた。さて、これから山手線に乗るか!
Y君:課長、お供します!
私:うむ、ついてまいれ。

 これは周囲の人からは「課長・主任プレイ」と呼ばれ、「あのガキコンビは一体何をやってるのだか……」と苦笑されていた。そんな我々がついに初出張の日を迎えたのである。我がグループの先輩方はニヤニヤしながら「大丈夫か?」「珍道中になりそうだな」などと温かい目で見守ってくれていた。

 そして、徳島県鳴門市へ! 我々にとって初の四国では、クライアントの関連施設をまわり、それらをどうPRするか、といった会議も行った。そしてその日の仕事が終わり、クライアントと一緒に食事をした後は解散。我々2人はこんな展開となった。

Y君:課長、まだ飲み足りないですね。
私:おぉ、主任、もう一軒行くか?
Y君:いいっすね! 行きましょう。僕、スナックって行ったことないので行きたいです!

 とはいっても私もスナックなど行ったことはない。不安になったのでスナックの入り方を我々のグループの「お兄ちゃん」的存在のE氏に電話で聞いた。すると「ドアを開けておずおずと中を見渡したうえで、店のママに『いくらですか?』と聞け! それが自分に払える額だったら入れ」という助言をいただいた。

Y君:さっすがー、Eさんは大人ですね!
私:よし、主任、キミがいくらか聞いてくれ。
Y君:そこは課長がやってくださいよ!

 というやり取りになり、E氏の助言通り、一軒目のスナックで私は「い、いくらでしょうか!?」と聞いたところ、2500円とのことなので入ることにした。カウンターとソファー席のある店だった。ソファーには地元の中年男性2人と中年女性1人がいた。年の頃は45~52の間といったところか。

 最初はビビっていた我々だが、カウンターの中のママ2人は「あら、どこから来たの? 東京から? こんな遠くまでよくいらっしゃいましたね」などと丁寧に接してくれた。ウイスキーの水割りを飲むと我々も大分気分が落ち着いてきて、緊張感はなくなっていった。そこでY君が突然小芝居を打ってきた。

Y君:課長~! 今日の商談うまくいきましたね!
私:主任のお蔭だよ、ハッハッハッ! キミの作ってくれた資料がお客さんに刺さったんだよ!
Y君:いやぁ~、課長のプレゼンあってのことですよ!

 完全に「サラリーマンの上司&部下ってこんな会話をスナックではするのでは?」という偏見を基にしたアホ会話なのだが、こんな話をするとカウンターの中の2人も後ろの客も「こいつらは何者なのだ?」という感じで聞き耳を立ててくる。我々はさらに続ける。

Y君:今日出てきたあの人、係長でしたよ。課長よりも役職が下じゃないですか! いやぁ~、やっぱり課長はさすがに貫禄ありましたね~! 彼、あのプレゼンにビビってましたよ!
私:ハッハッハッ、まぁ、そう言うなって、何はともあれ今日は祝杯だな!

 こうなると店のママは「あら、こちら、そのお若さで課長さんなの?」と言ってくる。当時私は26歳、Y君は23歳だった。スナックには似つかわしくない若い客でしかも東京から来ている。Y君はホスト風のビシッとしたスーツを着ているが、私はTシャツ・短パン姿だった。こんな課長がいるわけないのに、Y君はこう答えたのである。

Y君:課長は我が社でも出世頭なんですよ! だからこの若さで課長なんです!

「あら、おえらいのねぇ~」なんて言われて私も「まぁ~、それほどでもありませんが、ハハハハハ」なんてテキトーに話を合わせる。すると後ろのソファー席に座っていた3人が「こちらにいらっしゃいませんか。一緒に飲みましょう」と誘ってくれた。

 このオファーを有難く受け、我々は合流。3人は鳴門から大鳴門橋を渡ったところにある淡路島在住なのだという。

 彼らも我々の関係性が気になるようで色々聞いてきたがY君は「課長はすごいんですよ!」を繰り返す。博報堂の社員で出張で鳴門にやってきたことも伝えた。ウソをついたのは「課長」「主任」という肩書きとかなり私の実績を盛りまくったところぐらいか。この様子を「ういヤツ」と思ってくれたのか、なんとこのスナックでの会計をすべて持ってくれた。

 しかも、その後はまずは焼肉屋に連れて行ってくれ、そこでも腹いっぱい食べてしこたま飲む。さらにラーメン屋で締めるというとんでもない食い倒れツアーとなった。夕方にステーキを食べたのにコレである。この時いた榊原郁恵似の健康美人はY君のことをすっかり気に入ってしまったようで、店から店の移動の時はY君の腕に手を絡ませて「私の息子!」なんてしなだれかかりながら言っていた。

 結局焼肉もラーメンもおごってもらい、我々は「鳴門最高!」と初上陸の四国の地で絶叫するとともに、3人に別れを告げたのだった。果たして彼らはどうやって淡路島に帰ったのだろうか……。わずか20年前の話だが、今考えると実に恐ろしい。

 今やリモートで会議ができるだけに出張はもう不要になったといえるだろう。余計な交通費も宿泊費もかからない。それはそれでいい。だが、結局クライアントとの関係はこの時深まったし、何よりもY君とのいい思い出ができた。

 というわけで、コロナが収束したら時々出張はしてもいいんじゃないかな、と思っている。

◆中川淳一郎/なかがわ・じゅんいちろう

1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。一橋大学卒業後、博報堂入社。企業のPR業務に携わる(2001年退社)。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』など。
(写真は1997年入社時)

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