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狂言師 野村萬斎氏 × 博報堂 井村光明 サイボーグの遊び心
イノベーション時代のジレンマ と 自由を生み出す「型」

2020.10.09
「イノベーション」「トランスフォーム」「チェンジマネジメント」……。
企業社会で変容を促す言葉が盛んに使われています。コロナ禍の今、それは一層加速されている。しかし、否応なく変化を求められる状況の中で、「変える」こと自体が目的となってはいないでしょうか。「変わらないこと」の中にも大切なことがある、そんなノスタルジーは聞き飽きたけれど、少なくとも、変わることありきで判断を下しやすい状況にある、その認識は持っておくべきではないでしょうか。表現者から見た「変わること、変わらないこと」。狂言師の野村萬斎さんと、博報堂のクリエイティブディレクター・井村光明が語らいました。

世代について

井村:僕は博報堂で主にテレビCMを作ってきました。今年で52歳になります。

萬斎:同世代です。僕は54歳。

井村:僕らが10代の頃、ハードロックやヘビーメタルが流行ってましたよね。野村さんもお好きだったと聞いて、勝手に親近感を感じていたんです。

萬斎:ベストヒットUSA世代ですからね、Van Halenとかもあったし、コピーバンドをやっていてDeep PurpleやRainbowなどリッチー・ブラックモア系も演ってました。

井村:お〜!リッチーと言えば「様式美」。野村さんのイメージと合いますね(笑)。

萬斎:AC/DCとかQUEENの「ボヘミアン・ラプソディ」も歌っていましたね。

井村:かなり高音じゃないですか。今のお声は低く感じますが……。

萬斎:若い頃は、4オクターブ半くらい出ていましたよ。

井村:時の流れって声に出ますよね。メタルの場合、特に。往年のバンドのライブに行くと、楽器隊はむしろ上手くなってるから、一層ヴォーカルの入りでしみじみしちゃったりとか(笑)。

萬斎:僕らはもう、校長先生世代よりも上になってきちゃっているわけだからね。

イノベーション時代のジレンマ

井村:今日は「変わること・変わらないこと」というテーマでお話を伺いたくて来たんです。

ITの普及以降、社会全体で「イノベーション」「トランスフォーム」が盛んに言われるようになり、それまでの本業から業態を変えようとする企業が増えています。広告会社も例外ではなく、従来のマス広告の制作・媒体セールスから、「世の中の課題をクリエイティブで解決する」という業態へ脱皮を図ろうとしているんですが、そんな中で、僕のようにCM一筋で来た人間は「CM職人」と「職人」という言葉で揶揄されたり、大変申し上げにくいのですが、TVCMも「伝統芸能」と呼ばれるようになっているんですね。「変わらないこと」という意味で・・・。

CMの場合、確かにメディア環境の変化で変わらねばならない部分もあります。しかし、世の中に「とにかく変わらなきゃ」という強迫観念があるようにも思うんですよ。変えるという行為自体が目標になり、「同じことを続けるのはダサい」という風潮にもなっていることに、業界や職種を問わずジレンマを感じている人も多いと思うんです。

きっと野村さんは、僕らが今感じているようなことを、ずっと感じてこられたのではないかなあと。

萬斎:時代との誤差、時代に即していないような並行線を辿っている感じは、常に持っていますね。

井村:時代との誤差?

萬斎:狂言は現実の世界を映しはしますが、交わりきらない二つの線だとも捉えています。だからこそ、その二つの線を行ったり来たりしながら、何が同じで何が違うのか、現実世界で流行っているものを見て、それが何故新しいのか何故カッコいいのか、現実の線と自分が今いる線をとにかく確かめる。どちらかを良しとするのではなく、あくまで誤差を確実に認識するというかね。

井村:そういえば何かのインタビューで、「狂言の活動を取り上げてもらうことが大事。そうでないと(狂言は)秘密結社みたいに思われちゃうから」と仰っていましたよね。

野村さんは敢えて「秘密結社」のようなポップな言葉をお使いになることが多いじゃないですか。お書きになった本のタイトル「狂言サイボーグ」の「サイボーグ」とかもそう。不意に投げかける単語がいつも面白い。それは世の中との距離を意識してらっしゃるからかなと思っていたんです。

萬斎:言葉の仕事をなさっている方は、そこを突かれますか(笑)。

自分に懐疑心というか、疑いを持っている感じですね。サイボーグに見えているんじゃないかとか、能楽堂という所でなにかやっているらしいぞ、とかね。狂言を観に来られたことのない方には、入ったことのない教団の建物に一歩踏み入れるような怖さがあるんじゃないかと。昔から自分を俯瞰して見ているところがあります。

井村:そうお聞きすると、「狂言サイボーグ」に「サイボーグ009」のような宿命というか哀しみを感じますね。

萬斎:まさしく島村ジョーですよ(笑)。 だって、3歳で意識がないうちからやらされて。ふと自意識を持ったら、すでに狂言の機能をプログラミングされた人間となっていて「戦え!」と舞台に放り出されるわけですよ。やりたくもない戦いで。しかも、「型」という機能を使ってかからなきゃならない。悲哀を感じながらね。「サイボーグ009」とか「仮面ライダー」のようなものです。気がついたら、バッタと混合した人間になっているわけですから。

井村:お気の毒ではありますが(笑)、狂言師とは「型」をプログラミングされた人間ということになると、PCにOSを入れるようなデジタルな感じがしますね。

萬斎:我々はまず「型」を身につける。個性など関係なく、誤作動しないようにすることが重要なわけです。その意味でデジタルと言えるでしょうね。

「型」という言葉への誤解

井村:その「型」なんですが。クリエイティブの仕事をしていると、必ず言われるのが「型にはまるな」なんですよ。「型」という言葉には「クリエイティブ」の反対語のようなイメージがある。それこそ自由に発想を広げることを阻害する悪の秘密結社のように言われがちというか。「イノベーション」の時代になってCMが伝統芸能と揶揄されるようになったのも、15秒・30秒という型があるからで、「型」は「変わらないもの」の象徴にもなっています。

でも、野村さんの狂言を初めて観させていただいた時、演目は「髭櫓(ひげやぐら)」だったんですが、発想が自由すぎてビックリしちゃったんですね(笑)。

萬斎:「髭櫓」はあまり大がかりに道具を使わない狂言のなかで、あれだけわざと道具を使う。珍しい、狂言の中でも型破りなところがある。巨大な毛抜きが出てきて、極小の櫓が出てくる。実際のサイズと大小逆転させている面白さや誇張がある。ある種、リアリズムでは発想し得ないものじゃないかと思います。

井村:僕は演目運が良かったんですかね(笑)。ヘビーメタルでも最初に聞くアルバムが重要だったりしますもんね。やっぱりうるさいだけだなと思うか、意外に良いじゃんと思うか。でも、とにかく面白かったんです。

正直僕も狂言に古臭く変わらないものというイメージを持っていたんですが、「髭櫓」で心を許してしまうと、橋掛かりから出てこられるお姿を見るだけで可笑しみを感じるようになったんですよ。「型」の姿勢ですよね。「型」のパワーを感じたというか。

萬斎:型というのはそれだけ根源的な方法論とも言えます。絶対的にそれをやっていれば大丈夫、コケない。だから、安心材料としたうえで遊べる。隠れ蓑でもある。型があるからほかは崩してもいい、と僕らは考えるわけです。型を保守的に権威づけることも古典芸能にはありがちなのだけれども、「型を使うことによって狂言たらしめていれば、あとは何でもいいじゃん!」というのも僕の活動の根源。

能楽堂は様式美、我々はここに立つとか、どこから出るか決まっているわけね。でも今、僕は世田谷パブリックシアターで現代劇も含めて演出していますが、そこで狂言をする場合「どういう舞台装置を作ってどこから出入りしましょうか?」というところから考えなければいけないわけです。

そこで、シルク・ドゥ・ソレイユを見て、能舞台には屋根があるけれど、劇場だと上のベクトルが使えるな、と考える。客席も3階まであって目線が高いので、俯瞰的に人間を見られるな。だったら舞台を中央に置いて、橋掛かりを3つつけてみると、「人生の交差点」と表現できるな、となる。

アートスフィア(現:天王洲銀河劇場)での、地獄の鬼たちが出てくる「世紀末・地獄狂言の会」の時は、能舞台では橋掛かりから出てくるだけなんだけど、それを大迫りを使って出すわけです。下が地獄なわけだから。ターミネーター2の音楽をかけてね。

迫を使うのは歌舞伎的な発想だから禁じ手だったかもしれませんが、能舞台ではなく劇場ですからね。劇場の特性を空間的に感じて、そういう発想になっていく。実は科学的に既成概念と違うことをやるわけです。

井村:正に狂言と現代を行ったり来たりされてますね。

萬斎:でも、僕らがやっていることは、実は能舞台とほとんど変わらない。迫り上がっただけ。その後は、ほとんど自分たちがいつもやっているようにやっている。

井村:それって、「型があるから型破りができる」というか、正確には「型を持たないと自由になれない」という感じではないですか?。自由に考えると、むしろ自由な表現が生まれにくいという意味で、とてもピンとくるんです。

僕はこれまで「型にはまるな、自由に面白いをしてきたんですが、ずっと「自由」を苦手に思ってたんですよ。

だって、自由に、って、具体的な方法が無いわけで、どうすればいいのかさっぱり分からないわけです。プールに投げ込まれて「自由にどうぞ」って言われてる感じというか、クロールなり平泳ぎという型があったほうが自由に泳げるわけで。

それでCMを30年やってきたのですが、何が「面白い」のかは30年やっても分からなかった。でも、何が「面白くない」のかは確実に分かるようになってくるんですね。面白いアイデアを考える具体的な方法とは、「自由に面白いを考える」ではなくて、「面白くないことを省く」ということではないかと思うようになったんです。

それは、自分の中に「これは面白くない」と判断できる確実な感覚・「型」を持つことで、初めてその外側の「面白い」を自由に考えられるようになるということなんだなあと。

これまでうまく言葉にできなかったのですが、野村さんの狂言を見るようになって、そこがしっくりいった感じがしたんです。

萬斎:自由というところでいうと、鬼ごっこを広い草原でやってもちっとも面白くないですよね。永遠に捕まらずに走っていく。囲いがあるからこそ、そこでスリリングな関係が生まれてくる。狭くてすぐ捕まってしまうような場所では、高鬼や手つなぎ鬼になる。それがクリエイティビティだと僕は思うわけです。制約を逆手に取って、次なるルールや縛りを使うことで複雑化させていく。足し算から引き算になったとき、前と同じものはやめていく、すると残ったのは珍しいものということ。それは世阿弥も「珍しきが花」と言っている。人が経験したことのないものを見るとき、キャッチーと感じるわけですね。

井村:狂言の「型」や、仕事における「スキル」も、足し算ではなく試行錯誤という長い引き算をして残ったエッセンスだと言えますよね。現在の「より早くより大きく変える」という価値観の中で、「削ぎ落とすことは長い時間をかけなければできない」ということに目が向かなくなり、評価されにくくなっている。「イノベーション」の時代にジレンマを感じてしまうのはそこかもしれませんね。

教育とはプログラミング

井村:かつては「企業のDNA」という言葉を良く耳にしたものですが、各社揃って「イノベーション」を掲げるようになって企業のカラーが見えなくなったようにも感じています。

それこそDNAといえば、狂言は世襲なわけですが。

萬斎:狂言では世襲制も含めた徒弟制度をやっています。世襲制の良さは、やはりDNAが近いこと。徒弟制度では、ものの発想や生活習慣、技芸のDNAを一緒にするために、弟子は先生と暮らす。技術を習うだけじゃない。先生と寝食をともにするという、古臭いことをするわけです。

井村:ですよね。にわかファンで大変恐縮ですが、野村さんが3歳で初舞台を踏まれた時の演目の「靱猿(うつぼざる)」も去年観たんですよ! それから野村さんは狂言一筋なわけですよね。

理不尽なようにも感じるのですが、企業のDNAが薄れてる原因を考えると、そこを避けては通れないんですよね。かつては企業においても割と濃い師弟関係のようなものがあったのですが、今は真逆を目指してるところがあるんです。多くの企業でジョブローテーションを制度化していて、若手社員を数年で違う部署へ異動させマルチスキルな人材を育てようとしています。つまり一つのことを長くやれないようにしているんですね。

若手社員にとっても、適性もあるだろうからいろんな経験をした方がいいし、上司と相性が合わなかったからダメということも避けられる。

合理的なんですが、野村さんのように一つのことを続ける良さも確実にあるはずじゃないですか。寝食まで共にできないまでも、徒弟制のエッセンスを知りたいと思いまして。

萬斎:僕らは職業選択の自由が無かったものでね、ジョブローテーションについては何とも言えませんが(笑)。その考えは、ゆとり教育の頃に浸透した、「個性豊かにやりなさい」と浅く広くなんでもやらせてみる、に近いのですかね。その頃僕は、中央教育審議会に呼ばれて教養について講演を頼まれたことがあったのですが、「教養とは、“生きるための最低限の型”ではないか」と申し上げました。狂言は修行の最初では個性をまったく無視した型にはめ込みます。ものの食べ方と同じ。こうしたほうが美的、礼儀にかなっている、ということがある。そこに理屈はないし、個性は関係ないのです。そういうものをまずは教えなければダメだろうと。

教育はプログラミング。機能をインプットする。そういうことを当時は言いましたね。

井村:僕らも、インプット、という言葉はよく使いますが、ことクリエイティブ職においては、自分らしさとかを意識しちゃって、プログラミングする・される、という意識が無いですね。個性を見つける・伸ばすという発想になっている。まあ、恥ずかしながら僕もそうだったわけですが・・・。

萬斎:徒弟制度は教える側の親や先生のレベルが高ければ、非常に恵まれるわけです。ここにあるレベルは何だ、と。個性以前にそのレベルが存在している。そこまでの技術がないとこんな裸舞台では存在できないよと。先人たちで履いてきた型というパンツはでかい。それを自分サイズに縮めるのではなく、自分のほうがそのために太らなければいけない。自分の個性を見るのではなくね、自分よりも大きなものへ向かっていかないと、自分の可能性は太らないわけです。よほどの天才は別ですけど。天才とは自分の可能性がもともと人間サイズからはみ出ている人ですね。

井村:やっぱ師匠がグレートじゃなきゃ話にならないってことになりますよね・・・。企業がジョブローテーションをするのは、そういう師匠と出会う可能性を広げるという面もあると思うのですが、それによって一人の師匠と過ごす時間が短くなってしまうことにもなっていて、ジレンマなんですよね。

ご承知の通り働き方改革の時代でもありますし、世の中的に部下を強引に飲みに誘うとハラスメントになってしまう時代にもなってまして(笑)。でも、仕事のDNAを受け継ぐにはある程度仕事以外の時間を共有することにも意味があるということは、企業においても誰もが思っていることではあるんです。が、どんな時間をどの程度共有するのが適切かということが言語化できないんですよね。なにかヒントはないですかね。

萬斎: 漢字で「学ぶ」という言葉があります。「まねぶ」とも読みます。「まねぶ」は真似る。師匠を真似ることが、学ぶことだというのが、僕らの根本的な発想です。新しいことをしなきゃ、クリエイティブにしなきゃ、珍しいことをしなきゃ、というのは後の段階。まずは師匠と同じサイボーグになってこそ、ということでしょうか。

井村:真似しやすいように具体的に言語化されたものが「型」と言えそうですね。企業で教える「ナレッジ」はカッコよく言語化されすぎて、抽象的で真似しにくいものになっている。伝統芸能よりも、実は企業の方が精神論っぽくなっているというか。そこは変えるべきポイントかもしれませんね。

時代と交わるベクトル

井村:それでいうと、コロナの時代になって「今、私たちにできること」という言葉をよく耳にするようになりましたが、野村さんはコロナになってすぐ、YouTubeに「うちで笑おう」と題した「笑いの型」のレクチャー動画をアップされていましたね。ある状況になって「できることは何か」と考え始めるのではなく、「型」を身につけているからこそ、コロナだったら笑いの型だなと、状況に反射的かつ具体的に反応されたように見えたんです。狂言のポーズのことだけではなく、「型」とはベクトルのような力がある確実なスキルのことを言うんじゃないでしょうか。時代の線と狂言のベクトルが交わることで、自ずと答えが出たような。

ちなみに僕も「笑いの型」をやってみたのですが、確かに真似するだけで気分が明るくなったんです(笑)。身体がベクトルに引っ張られた感じがしましたね。

今日は「型」を巡って、かなり突っ込んだ話をお聞かせいただいたように思います。失礼なことをお聞きした部分もあったと思うのですが、本当にありがとうございました。

萬斎:こちらこそ有難う御座いました。また是非、狂言の方にも足をお運びください。

井村:あ、またまたにわかファンで恐縮なんですが、11月に「茸(くさびら)」をやられますよね! 生で見たことがないので、とても楽しみにしてるんですよ。

萬斎:コロナの時期にね、菌が増えるという演目は如何なものかとも思ってるんですけどね。

井村:え?そういうメッセージが・・・

萬斎:いえいえ。床の間の掛け軸的にね。秋ですから。

井村:あ、季節ものということか、ビックリしたあ。

面白いなあ、野村さん(笑)。

対談を終えて

野村さんも井村も、現在だけでなく、いつの時代にも「イノベーション」は必要なものであった、という共通認識から対談はスタート。その上で、現在の「変わる」ことを優先する風潮の中、「変わらないもの」の象徴として捉えられている「型」に注目し、議論は教育に及ぶこととなりました。その主旨は、机上で考えられ更新されていく物事が、本当に効率的・実用的な機能を果たしているだろうか、という点にあったように思います。これだけをプログラミングすれば機能するというところまで削ぎ落とされた「型」。そして「削ぎ落とすことは長い時間をかけなければできない」という視点。サブスクリプションからコンビニ袋有料化に至るまで、世の中は分かりやすく付加価値を付けることによる変化から、吟味して削ぎ落とす時代になっている。そんな示唆を感じる対談となりました。

時に人生相談のような質問をする井村に対し、常に迷うことなく論理的に即答なさる野村さん。AIではなく、修行を重ね血と汗と膨大な涙を超えてらっしゃったであろうことを感じてしまう揺るぎなさ、野村萬斎という「型」のサイボーグと人間との出会いでした。

野村萬斎主宰の狂言公演「狂言ござる乃座」のご案内

●東京公演「狂言ござる乃座62 nd」

10月18日(日)15時開演・10月23日(金)19時開演 国立能楽堂

●京都公演「狂言ござる乃座 in KYOTO 15th」

11月3日(火・祝)14時開演 金剛能楽堂

※いずれも解説付きの有料配信を実施。最新情報は 万作の会ホームページ http://www.mansaku.co.jp/performance/index.html#201018

野村萬斎@狂言ござる乃座Twitter https://twitter.com/mansai_gozaru

をご覧下さい。

野村萬斎@狂言ござる乃座YouTube(「うちで笑おう」動画配信)
https://www.youtube.com/channel/UCfcZDtNB_qKhJ8c0G2qnCQA

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