BranCo!」は、博報堂の次世代型コンサルティングチーム「博報堂ブランド・イノベーションデザイン」と東京大学教養学部教養教育高度化機構が共催する、“大学生のためのブランドデザインコンテスト”。課題となるテーマについて様々な視点から調べ、その本質を考え抜き、魅力的な商品やサービスブランドのアイデアをつくりだして競い合う、チーム対抗形式のコンテストです。今年のテーマは「暇」。『暇と退屈の倫理学』の著者である、東京工業大学教授の國分功一郎先生と、博報堂ブランド・イノベーションデザインのボヴェ啓吾と岩佐数音が「暇」をテーマに語り合いました。

「BranCo!」今年のテーマは“暇”。

どんな仕事でも、まずは課題や問題に関する情報を集めて、その本質を考え、具体的な商品やサービスをつくるという構造は変わりません。こうした「インプット」「コンセプト」「アウトプット」というプロセスを、大学生ぐらいのうちに体験して学んでもらえたら、のちのち仕事をするうえでも役に立つのではないか。「BranCo!」は、そういう思いもあって開催しているコンテストです。
毎年、設定したテーマにもとづいた商品やサービスブランドのアイデアを、学生たちにチームで考えてもらうということをしています。昨年は「笑い」、一昨年は「平和」がテーマでした。今年のテーマは「暇」です。暇というテーマは、たいへんな広がりを持っていますが、國分先生の著書『暇と退屈の倫理学』を読むと、思っていた以上に「暇」ということが、人間にとって本質的な問題を含んでいることを実感させられます。そこで今回、國分先生に「暇」について様々な話をうかがい、このテーマに関する理解を深めていきます。

「暇と退屈」を考える出発点

ボヴェ
さっそくですが、そもそも先生が暇というテーマと向き合うきっかけにはどういうことがあったのでしょうか。

國分
大学4年生のとき、丹生谷貴志という批評家のインタビューを読んだんです。そのなかで彼は、ホスピスの看護師が患者を殺してしまったという事件に触れて、人は自分がやっていることの意味の無さに耐えられないんじゃないか、ということを話していました。
ふつうに考えれば、ホスピスで働く看護師の仕事には意味がある。でも他方で、一生懸命がんばっても、目の前にいる人が死んでいってしまうことがわかっているときに、そこには何か耐え難いものがあるのではないか。そしてこういう状況は、ホスピスのような極限的な場だけの問題ではなくて、近代社会が抱えている問題なのではないかと語っていた。当時、こういう問題を考えたいと思ったことが明確なきっかけとしてあります。

ボヴェ
大学生時代から考えようとしていた問題だったんですね。

國分
ええ。それからもう一つあります。僕は社会科学の出身で政治学を専攻していたので、戦争なり貧困なりといった社会問題にすごく関心が高かった。でも、そういう社会問題について自分が関心を持ち続けていく中で、もし問題がすべて解決したら、自分はいったい何をするんだろうと思ったんです。
そのときに、解決しなきゃいけない問題があることが自分の生きがいになってしまうのは間違っているだろうという感じがありました。それでは、自分が社会問題に依存していることになってしまうからです。

ボヴェ
社会問題を解決することだけに生きる意味を見いだしてはいけない、と思ったわけですか。

國分
そうです。若いときですから、自分がやっていることの意味に対して非常に強い渇望があった。僕が今やっている勉強には、世の中の不幸を解決することに役立つという意味があるんだといったことを、自分に言い聞かせていた気がします。
でもそういう自分に、健全ではないものを感じたんですね。そこから、意味がある、意味がないとはどういうことかとか、こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、社会問題を考えることができるのも自分が暇だからじゃないかとか、いろいろ考えがめぐっていきました。
このあたりも暇と退屈の問題を考える出発点でしたね。世の中の不幸について考え、取り組むことは大事だが、同時にそれだけじゃない自分の生の生き方を考えなきゃいけない。そのときの条件としてあるのが、たぶん暇と退屈の問題であろうと。

「暇ではないが退屈している」とはどういうことか

ボヴェ
ふつうの感覚からすると、暇と退屈は混同しがちです。でもご著書のなかで國分先生は「暇」と「退屈」を明確に分けて論じられていますね。この違いは最初から意識されていたんでしょうか。

國分
その違いは大事な発見でした。じつはぼくの講義を受けているある学生が、感想文で指摘してくれたんです。「先生の講義を聞いて、暇と退屈が違うことがわかりました」って。読んで、なるほどそのとおりだと思いました。概念を混同しない、分けて考えるというのは、哲学の大事な作法です。
暇とは、何もする必要のない時間で、これはその人のあり方には関係のない客観的な条件です。それに対して、退屈は何もすることがなくて不快だという主観的な感情や状態を指します。
この違いに気づいて、いろんなことが見えてきた。組み合わさると、「暇である・退屈している」「暇である・退屈していない」「暇でない・退屈している」「暇でない・退屈していない」と4つあるわけですよね。そうやって概念を操作しているなかで、暇ではないが退屈しているという組み合わせが、一番謎めいているけれども、しかも現代社会に巣食っている根本的なものだということが見えてきた。これも面白い発見でした。

ボヴェ
なるほど。頭のなかで組み合わせて考えているなかで発見があったんですね。
著書の中盤あたりに、いま説明いただいた組み合わせと、ハイデガー(ドイツの哲学者)の退屈の議論を重ねて考察を深めていくくだりがあります。すごく単純化して言ってしまうと、そのなかで國分先生は、暇ではないけれど退屈しているという状態を断罪することなく、むしろそれが当たり前であり、「正気」であるというような表現をされていた。私個人は、その指摘に、ああ、それでいいんだと少し救われた感じがあったんです。

國分
ハイデガーは、退屈を3つの形式に分けるわけですよね。第一の形式は、駅で電車を待ちながら、早く電車が来ないかと焦っているような退屈ですから、要するにワーカホリックということです。これは、仕事の奴隷になっているという意味で狂気であるとハイデガーは診断します。
それに対して退屈の第二形式は、パーティーでソファに座ってだらっとしたり、お酒を飲んだりしているときに陥るような退屈です。退屈と気晴らしが絡み合った状態のことだとハイデガーは言っています。

ボヴェ
気晴らしなのに、なぜか退屈しているような感覚ですよね。別に暇を持てあましているわけじゃなくて、パーティーに出たり、スマホをいじったりして気晴らししているけれど、それに退屈してしまう。そういう状態って日常にたくさんあります。

國分
ハイデガー自身は、そういう第二形式の退屈をとくに大事だとは言ってないんですよね。むしろ第三形式である「なんとなく退屈である」という状態を最も深い退屈と考え、そこから決断して何かの流れに身を投じろと言い出す。
一方、おっしゃってくださったように、僕からすると、退屈の第二形式は決して断罪すべきものではなくて、人間が人間らしく生きるための知恵のように考えられる。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間は、そのつらさとうまく向き合うために、生を飾るようになっていったと思うからです。
ここが哲学の面白いところで、ハイデガーの意図と、彼がつくりだした退屈の概念は全然違うんです。概念のほうは、もう彼の手に収まっていない。ハイデガーは退屈の第三形式を強調したいのだけれど、よくよく読み解いてみると、第二形式を発見したことのほうが決定的に重要だということがわかってくる。

ボヴェ
魅力的なコンセプトや概念は、それをつくった人の手を離れて、ほかの人の中で新しいものに広がっていくことがあるわけですよね。コンセプトをつくることは私達の仕事の肝でもあって、BranCo!に参加する学生達にもその大切さを伝えているのですが、魅力的なコンセプトが起点となって、複数の人の中で新しいアイデアが次々と生まれていくようなダイナミックな動きはたいへん刺激的ですね。

自分が自分のもとにいる状態

岩佐
國分先生の著書を読むと、いまおっしゃったような退屈の第二形式、つまり退屈と気晴らしがまじりあうなかで生きていくことが人間の「正気」であると書かれています。ただ、始めのほうの話に戻りますが、そうやって退屈とうまく付き合っていきながら、生きる目的や意味というものを考えることはできないものでしょうか。

國分
本のなかでは、そこはあまり論じていないんですよ。ただ結論の部分で、他人に関わる事柄を考えるためには、自分が自分のもとにいなければならない、というようなことは書いています。
たとえば、大学生のころの僕が、世の中の問題を解決したいと躍起になっていたときは、自分が自分のもとにいなくて、その空白を埋めるように世の中の不幸に頼っていたんじゃないかという気がするんですよ。もし、自分がきちんと自分のもとにいられるのだったら、考えなきゃいけない問題については考えるけれども、べつにその問題がなくたって僕は生きていけると思うんです。そして退屈の第二形式においては、自分が自分のもとにいるための余裕がある。

岩佐
第二形式の例として出されている「パーティーに際して退屈している」というあり方と、いまおっしゃった、自分が自分のもとにいる状態で様々な問題と向き合うという関わり方は、どこかで通底しているということですね。

國分
そうです。「パーティーに際して退屈している」という例で言おうとしていることは、現実はすべてパーティーのように退屈だということです。でも退屈だからこそ、落ち着いて食事を楽しんだり、自分のことを考えたりできる。それが自分のもとにいる状態だと思うんです。
退屈を持て余して、ああどうしようと焦るのは、まったく自分のもとにいない状態で、そういう人は駅で電車を待つこともできなくなってしまう。
それに対しパーティーでちょっと退屈しながらも、同時に食事を楽しむことができる人は、自分のもとにいられるわけですから、そこから世の中の問題と向き合うこともできるわけです。

★後編はこちら

■BranCo!2019公式ウェブサイト
https://branco.h-branddesign.com
■ファイナルイベント申込ページ
https://branco2019-final.peatix.com

構成=斎藤哲也

■プロフィール

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)

1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。主な著書に『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院、2017年、第16回小林秀雄賞受賞)、『民主主義を直感するために』(晶文社、2016年)、『近代政治哲学──自然・主権・行政』(ちくま新書、2015年)、『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版、2015年、紀伊國屋じんぶん大賞受賞)、『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書、2013年)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店、2013年)、『スピノザの方法』(みすず書房、2011年)。訳書にジャック・デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店、2004年)、ジル・ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫、2008年)などがある。