
-太田さんは20年以上前からカンヌライオンズに参加されているとのこと。審査員としては今回が初参加ということですが、グラスという部門について、また選出された経緯など教えていただけますか?
太田:グラスは「Glass: The Lion For Change」という名の通り、世の中の不平等を平等に“変えて”いくことを目的とした部門。グラスというのは目に見えない不平等のことで、性や人種の不平等、虐待や暴力、貧困なども含まれます。今回のグラスの審査員長はシンディ・ギャロップという人で、2015年にこの部門ができたとき審査員長を務めた人。10年後にはなくなっていてほしいと願ってつくられた部門なのに、シンディは再びこの部門の審査員長として戻ってくることになりました。「この10年で何も変わってないじゃない!」という彼女の無念な思いもあり、今回のグラスは、世の中を変えると宣言するだけでなく、実際に世の中を“変えた”ものを評価しようという方針が語られました。
シンディとは10年ほど前から面識があって、審査員リストにアジア人がいないと気づいたとき、私のことを思い出したそうなんです。でも私は英語に自信がないから無理よと言ったら、「英語が話せるかなんてノープロブレムだ。英語が母国語かどうかだって不平等だし、審査員には聴力が不自由な人もいる。グラスはみんなが平等に生きられることを目指しているんだから何の問題もない」と言われて参加することに。討論が不安だったら通訳を連れて来ていいよと言われて、シンディと旧知の博報堂の前原双葉さんに付いてきてもらいました。はじめは不安な気持ちでしたが、審査員の多様な顔ぶれを見て、シンディの真意が理解できました。

はじめの審査はオンラインで行われて、まず自己紹介をするんですが、「I have 1 husband&6 children」と言う男性がいれば、「3週間前にMIKEからREIに名前を変えた」と言うトランスジェンダーの人もいる。オンライン審査の合間に子どもを出産した人もいて、彼女は産んだばかりの赤ちゃんをカンヌに連れてきていました。
トランスジェンダーの人もいれば、伴侶の性別も、国籍も多様。人それぞれ生活も考え方も違うメンバーのなかで、ジェンダーを超えた多様性を目の当たりにできたことは、私にとって得難い経験。それだけでもグラスの審査員をやってよかったと思えましたね。

-グラスの受賞作から印象に残ったものをご紹介ください。
太田:グランプリはヴァセリンの「トランジションボディローション」。トランスジェンダー女性向けに開発されたボディローションです。ホルモン療法中特有の肌問題に向き合って2年間かけて開発したものを、「トランスジェンダー可視化の日」にタイで発売。その日にパレードを行ったり、キャンペーンを打つというだけでなく、商品として発売され、店頭に並んだということが、実際に世の中を動かしたという評価につながりました。

ヴァセリンのタグラインは「Healthy Skin for All」。ALLのなかにインクルーシブという考えが含まれています。なので、すべての人へ、という理念をまさしく体現したプロダクトです。グラスの審査対象は広告だけにとどまらず、プロダクト、サービスなども含む大きな枠組み。「トランジションボディローション」は、これまで世の中に存在しなかったものに目を向けたことで価値変換を生み出しています。商品開発も含め、それを体現している企業にグランプリが与えられたということだと思います。
ゴールドに選ばれたPINK CHIPは、女性CEOの会社だけを集めた投資信託。世界の上場企業のうち、女性CEOはわずか7%。さらに、女性がCEOに任命されると、偏見を持つ投資家が株を売却し、株価が下落するというデータが出ています。女性リーダーの企業に対する投資家からの偏見を覆すため、その成果を見える化し、投資家に価値を認識させるためのライブインデックスがPINK CHIP。女性リーダーの企業が正当に利益を上げるためのプラットフォームをつくったということですよね。

シルバーに選ばれたポテトチップメーカーのレイズの「PROJECT FARM EQUAL」は、女性が率いる農場は男性経営農場に比べて収穫量が30%少ないという事実に着目したプロジェクト。その原因は、農機具が男性サイズでつくられていたことだったんです。農機具を女性のサイズに合わせたところ、大きい芋が穫れるようになり、収入も増えて、女性の地位向上にも繋がった。男性を主たる就業者として規格やルールが決められていることって、日本にも、どこの企業にもあるんじゃないかと思うんです。判断するポジションが男性ばかりだと気づかないことがある。そこに目を向けることが企業の成功につながるという気づきを与えてくれた作品です。

この作品が与えてくれる重要な視点は、男女の差というより人の体型や手の大きさの違いに目を向けていること。女性のことを考えることは、生活するすべての人を考えることにつながるんです。
ブロンズに選ばれたブラジルの化粧品会社のキャンペーン。ブラジルの育児休暇は、女性の120日に対して男性はたったの5日間。それだけじゃ少なくない?というメッセージを映像作品にしたものです。この会社は男性にも120日の育児休暇を与え、他企業のために育児休暇の延長を促す資料をつくったり、育児休暇の延長にまつわる6つの法案も申請しています。一企業の活動が国全体を動かすことに繋がるかもしれない。自社だけの取り組みに終わらず、社会全体に向けた働きかけを行なっているという意味でも、非常に参考になるのではないでしょうか。

-審査を通じて感じたこと、気づきなどを教えてください。
太田:今回感じたことは、性差別撤廃を目指してはじまったグラス部門ですが、10年という時間をかけ、性別だけでなく、人種やあらゆる差別、すべてのバイアスを取り払う試みに進化しているということ。
ジェンダーも国籍も身体的特徴も多様な10人が集まって審査をする現場は、まさに不平等がない世の中の縮図のようでした。これが普通な社会になればどんなに幸せかと実感しましたし、自分のなかにも無意識のうちにバイアスがあったことに気づかされたんです。
やっぱり、先週子どもを産んだばかりの人がカンヌに来るなんてびっくりしちゃうし、「I have 1 husband&6 children」と言われて、自分は驚かなくても「誰かに話したら驚くかな」と感じている。その時点で私自身にもバイアスがあったということなんですよね。世の中からそんなすべてのバイアスがなくなればいいと願って、この審査員が集められたんだと感じました。

-バイアスを取り払い、不平等のない世の中を実現するため、今後広告が担う役割とは?
太田:私たち博報堂は、あらゆる生活者を深く知ることで新しい価値を創造すると宣言しています。それはまさしく、生きているすべての人を包括しようというグラスの考え方と同じ。我々はメーカーではないので直接製品をつくることはできませんが、その視点を持つことが必ず社会の役に立つはずです。
企業はついターゲットのボリュームを重視しがちですが、それがすべてではありません。今回グランプリを獲った「トランジションボディローション」は、トランスジェンダーという一見小さな集団に向けた商品。しかし、少数派のことを考えることができる企業は、すべての人を大切にできる企業であると評価されました。今回のグラスではそれが多くの人の前で議論され、証明されたことに大きな意味がありましたし、これから世界のものさしになっていくんじゃないかと思います。
-これまで22回カンヌに通ってきた太田さん。最後に全体を通した感想をお願いします。

太田:昔はいまより部門もずっと少なかったですし、クラフトの素晴らしさが重視された評価が中心でした。でもいまは広告自体が拡張していて、広告表現を超えた価値創造がどんどん生まれている。もちろんクラフトも加わって進化しているし。だからこそ、社会課題の見つけ方やテーマの見つけ方、コミュニケーションの力をどう使えばいいかのヒントがたくさんもらえる場になっています。広告業界に限らず、若いときから勉強のためにカンヌに行くのはすごくいいことだと思う。私は会社で毎年カンヌにアパートメントを借りて、勉強にきた仲間のための拠点をつくってきました。そこでご飯をつくってみんなで食べたり、意見交換をしたり。今年は審査で一度も食事をつくれなかったから、来年はそうめんを茹でますよ!(笑)
【プロフィール】
太田麻衣子
博報堂 執行役員/博報堂クリエイティブ・ヴォックスエグゼクティブクリエイティブディレクター
1987年博報堂入社。1999年博報堂クリエイティブ・ヴォックス設立メンバー、2014年4月から2024年3月まで同社の代表取締役社長を務める。コピーライター、CMプランナー、クリエイティブディレクターとして幅広く活躍。