価値は、「交換」から「循環」へ。
―― アニミズムと贈与が示唆する、経済の新たな可能性

私たちが暮らす社会は、「資本主義」という仕組みの上に成り立っています。この仕組みにより、新しい技術や豊かな暮らしが生まれ、社会は発展してきました。一方で、売上や利益が伸びても、働く人や地域、自然の豊かさまで増えているとは限らないのも現状です。
企業が本当に増やすべき「資本」とは、お金だけなのでしょうか。
博報堂は、企業フィロソフィーである「生活者発想」を起点に、資本主義を内側からよりよいものへ更新する道筋を探る「生活者発想による資本主義研究プロジェクト」を始動しました。(リリースはこちら)
本連載『生活者発想でほどく「資本」の未来』では、生活者の「しあわせ」を真ん中に、資本主義や資本のあり方を見直していく過程を連載形式でお送りしていきます。連載第3回は、前回に引き続き、プロジェクトメンバーそれぞれの課題意識や考察を、ディスカッションとともにお伝え、また教育者・哲学研究者の近内悠太氏の「贈与」に関する論考を中心に紹介します。
<博報堂プロジェクトメンバー>
竹内慶 博報堂 生活者発想技術研究所 所長/本プロジェクトリーダー
吉澤到 博報堂DYホールディングス 執行役員 ミライデザイン室長
高橋徹 博報堂 UNIVERSITY of CREATIVITY 局長
加藤昌治 博報堂 研究デザインセンター
児玉綾子 博報堂 生活者発想技術研究所 所長補佐
伊藤幹 博報堂 生活者発想技術研究所 上席研究員
宮澤正憲 博報堂 執行役員 研究デザインセンター長/本プロジェクト統括責任者
<社外プロジェクトメンバー>
岩嵜博論氏 武蔵野美術大学 教授
近内悠太氏 教育者、哲学研究者
本條晴一郎氏 東京科学大学 准教授
江畑聡美氏 株式会社ジザイラボ 代表取締役
日本的な感性で捉える贈与とアニミズム
竹内
前回のディスカッションでは、武蔵野美術大学の岩嵜博論さんから「カルチュラル・アクティビストとしての生活者」という視点を提示いただき、生活者一人ひとりが実践者として「意味」を形成していく時代の可能性を議論しました。今回は、哲学研究者の近内悠太さんを中心に、贈与という概念を手がかりにして、資本主義の隙間をどう捉え直すかを議論していきます。
前回、近内さんのご著書『世界は贈与でできている―資本主義の「すきま」を埋める倫理学』について少し触れましたが、今回のプロジェクトへお声掛けしたのは、同書を拝読したのがきっかけでした。
以前お話しした際、贈与と日本的なアニミズムとのつながりについての考察をお聞きして、とても興味深かったです。改めて、その辺りをうかがえますか?
近内
アニミズムについて研究されている文化人類学者の奥野克巳さんの著作に、「分別がある」というキーワードが出てきます。西洋近代、とりわけキリスト教的な価値観では、神・人間・それ以外という絶対的な序列があります。これが「分別のある」状態です。たとえば、ぬいぐるみに感情や主体を感じる状態は「無分別」とされ、幼稚や未熟という評価を受けることもあります。
でも日本語ではどうでしょう。ただのお茶でも「茶」と言わず「お茶」と言い、ぬいぐるみのクマでも「クマさん」と呼ぶ。人間ではない存在に「お」という美化語をわざわざつけたり、さん付けしたりというのは自然なふるまいです。私たちは無意識に、ものに人格や意志があるかのようにとらえています。この「無分別」な感性こそが、アニミズムの根っこにあります。

竹内
「無分別」とされてきた感性の中に、むしろ豊かな何かが宿っている、と。
近内
そうです。そしてこのアニミズム的な感性が、贈与という行為の土台になっていると思っています。物に人格や魂が宿り得るというアニミズム的な世界観があるからこそ、贈り物を介して人の気持ちや人格が相手に伝わる、という感覚が生まれます。私は著書の中で、「贈り物をやり取りすると、物が物じゃなくなる」と書きましたが、これは贈った人の何らかの魂や人格がそこに付帯する、宿るという意味でした。
だから、誰かにもらった贈り物は不要になっても「あの人に悪いな」と感じて捨てられなくなるし、飲み物を飲み切らずに捨てることにも罪悪感を覚えます。「もったいない」という感覚も、同じ意識に由来しますね。
竹内
たしかに、そうした感覚はとても日本的ですね。
近内
そうですね。キリスト教的な贈与観は、「神が人間に与えてくれる」という一方通行のイメージがありますが、私たちが日常で感じる贈与は、もっと横方向や下からも湧いてくるような感覚です。日本には、アニミズム的な感性が今も当たり前のものとして日常に生きている。私の見立てでは、贈与とは、もともとそうしたアニミズム的な世界観と深く結びついて生まれてきた行為です。
日本はアニミズムの感性を色濃く残したまま近代化した点で、とてもユニークな地域です。一神教的な価値観を持たずに近代化し、民主化し、経済的にも発展できた地域として、これからの資本主義を考えるうえで、何らかのアドバンテージがある気がしています。
意味を形成する存在としての生活者
竹内
近内さんは、アニミズムと贈与のちょうど真ん中にデザインがある、ともおっしゃっていましたね。
近内
誰かにプレゼントを贈ることを考えてみると、イメージしやすいと思います。誰に、どんなラッピングで、どのタイミングで渡すか。そこにどんな言葉を添えるか。これは問題解決というよりも、意味を形成する行為、まさにデザインだと思うんです。プレゼントを考えている段階で、すでにその人はデザイナーになっていると捉えられます。
しかも私たちは、言葉も贈り物だと思う節があると感じています。どういう言葉で、どんな眼差しで伝えるか、テキストなら感嘆符をつけるか、顔文字を添えるかどうかも、ちょっとしたデザインです。問題解決というよりも、意味の領域を生成する行為だと感じています。
贈り物を考えたり、考案したり、渡し方を工夫したりすることを含めて、すべてデザインになっている。アニミズム的なものとデザイン的な思考の交差点に、贈与という行為があるのではないかというのが、最近改めて感じていることです。
竹内
日常の一つひとつの贈り物が、人と人との間に豊かな意味を生んでいる。資本主義と贈与を対立させるのではなく、ご著書のタイトルの通り、贈与には「資本主義の『すきま』を埋める」可能性があるということですね。

近内
そうですね。システムとしては、資本主義市場経済のままでいいと思っていますが、人々のマインドセットには変わる余地があるのかなと。前回岩嵜さんから、デザインの目的として「問題解決」と「意味形成」の二軸があるとお話がありました。私たちは日々、問題解決だけでなく意味形成もしているのだと気づくだけで、お金や経済への関わり方、主体性はかなり変わってくる気がしています。そこから、意味を形成する存在としての生活者が、自ずと花開いていくのではないでしょうか。
岩嵜
前回のディスカッションで、生活者が意味や価値を形成する「カルチュラル・アクティビスト」になるという話をしましたが、近内さんの話と聞き合わせると、次の問いが見えてきます。生活者一人ひとりが意味や価値を形成できるとして、形成されたものはどのような交換の対象になり得るのか、という問いです。
これは、貨幣経済とは違うパラダイムになり得ると思いますが、それはいったい何なのでしょうか。今もいろいろな地域で、たとえば趣味でつくった野菜をご近所さんに渡したり、お返しに庭の柿の木の柿をもらったり、といった交換が起きていると思います。自然環境から少しずつ豊かさをもらって、それを交換の対象にしているとも言える。
竹内
「文学フリマ」に代表されるZINEカルチャーも、貨幣が介在してはいるものの、それぞれ豊かさを渡し合っているように感じます。岩嵜さんは、大学の授業でZINEを扱われていましたよね?
岩嵜
そうですね。誰でもつくれるZINEというメディアや、それが交換される場としての文学フリマは、非常に興味深く見ています。また、同じく私の研究室で、市民の皆さんの意見を楽しく集める試みとして「まち未来(みく)じ」を展開しています。おみくじを引くと占い結果とともに問いが出てきて、それに答えることで、一人ひとりの意見を引き出す仕組みです。おみくじを引くのは、ある種のリチュアル(儀式)と言えるので、参加性を促せるのではと考えています。
近内
興味深いですね。「文学フリマ」は、貨幣交換には回収されない何かしらの経済的な流れを生み出している、いい例だと思います。ボトムアップで場のしつらえが形成されていき、それが拡大していった。おみくじもそうかもしれないですが、リチュアル(儀式)をデザインできると、何らかの流れが生まれていくのだと思います。
岩嵜
「市場のデザイン」、「マーケットプレイスのデザイン」という問いはとても重要だと思います。ぜひ今回のメンバーの皆さんと一緒に掘り下げたいテーマです。
「交換」から「流通」へ。個別性を持ったまま循環させる
本條
「交換」ではなく「流通」として考えると、より示唆が得られそうです。人によって価値の認識が違うので、贈り手と受け手の解釈はいつも一致するわけではありません。価値の物差しが一致しないものを「交換」しようとすると、難しくなる。
近内
物差しが一致しないから測定できない、だから交換が成立しにくい、ということですね。
本條
そうですね。でも贈与であれば、お互いの価値認識が違っても渡すことができる。貨幣経済では捉えられない意味や価値を循環させるうえで、交換というより、流通の活発化に投資することが鍵ではないでしょうか。

江畑
貨幣は、交換すると渡した側の手元から減っていく、ゼロサムのやり取りです。ですが意味や気持ちの贈与は違いますね。
渡しても、渡した側から失われるわけではなく、むしろ関わる人が増えるほど全体の総量が増えていく。そういう豊かさの循環が、新しい経済の形につながっていくのではないかと思っています。
岩嵜
一点、ここまでの議論からひとつ問いを立てたいのですが、贈与は伝統文化においては権力と紐づいてきたものです。では、権力性のない贈与とは何なのでしょうか?
本條
貨幣とは誰でも使える共通の物差しで、個別性を一度フラットにならすことで、権力と関係なく経済を動かせるようにしてきました。つまり「個別性を失わせることで権力から自由になる」というアプローチです。でも今ここで考えたいのは、個別性をならさずそのまま、それでも権力に回収されない経済の形です。言うならば、「個別性のある流通の活発化」を模索できるのではないでしょうか。
吉澤
ブロックチェーンを使ったトークンの話にも、似たようなところがあると思います。
地域に良いことをしたら、トークンをもらう。そのトークン自体には貨幣兌換性がなくても、やり取りが活発化することで個人の価値やその場所の価値が上がって、最終的にみんなに分配されるという仕組みです。贈与が流通することで、全体の価値が上がるというイメージを、可視化できるかもしれない。
岩嵜
お金が絡まないからといって、経済から遠くなるという話ではないと思っています。
経済が何に投資すべきかといえば、交換を生み出す土台に投資すべきで、その土台には人も含まれるし、人の関係性も含まれる。交換が促される市場という空間やしつらえに投資が行われれば、流通は活発になる。そういう意味での経済はあり得るのではないでしょうか。
竹内
流通や循環を活発化させる発想であれば、広告会社である博報堂にも関われるところがありそうですね。
近内
むしろ、博報堂の使命として、ということかもしれませんね。
〈本テーマについて掘り下げた近内悠太氏からの寄稿コラムはこちらから確認できます〉
https://hassogiken.jp/article/seikatsusha-shihonshugi-02/
※肩書は取材当時のものです