生活者主導型経済の時代が到来している。従来と同じ方法で企業が成長し続けるのは難しい。今、求められているのは進化するIT(情報技術)を活用した、消費者との直接対話であり、マーケティングの再生だ。

 

<このコラムについて>

「価値創造責任者が企業を伸ばす」ando

インターネット時代を迎え、ICT(情報通信技術)と融合するなかで、マーケティングは新たな時代を迎えて、企業の成長を左右するものとしての重要性を増している。マーケティングの世界で今起こっている変革と、新たな時代を勝ち抜くためのCMO(最高マーケティング責任者)の重要性を説く。
(2012年6月~7月に日経ビジネスオンラインにて連載された内容です)

著者:安藤 元博(あんどう もとひろ)
博報堂 エンゲージメントプロデュース局 局長代理
エグゼクティブマーケティングディレクター

→第1回「マーケティングは死んだのか」上・
第2回「2つのSが取り戻す『マーケティングの本来』」
第3回「『ビッグデータ』で何ができるのか―ここにあるマーケティングの未来」

 

いきなりだが今、経営者視点に立って「自社にとって一番足りないものは」と問われたら何とお答えになるだろうか。独自の開発技術か、営業販売力か、はたまた優れたマネジメント人材か。

少し前になるが、質問に答える記事を2012年3月19日の朝日新聞が掲載した。見出しは「自社に足りないのはマーケティング」。発言の主はシャープの奥田隆司新社長だ。

奥田氏の4月1日付社長就任発表を受けたこの記事によると「奥田氏は自社の弱点について『海外を経験して思うのはマーケティングの弱さ』と分析。『(高い技術力があるのに)市場をよく分かっていないから、よい商品をタイムリーに出せない』と話した」。見出しになるくらいだから、この発言はありきたりではない、と判断されたのだろう。

「足りないのはマーケティング」

一度目にしてみると「確かにそうかもしれない」と膝を打った方もいるのではないか。そういう切れ味がこの見出しにはある。

 

1.マーケティングのコペルニクス的転換

なぜ今「マーケティング」なのか。技術はある、ものづくりで負けているわけでは決してない。

だが結果が必ずしも伴わない。昨今の日本企業に対して巷でささやかれるようになった話題だ。

マーケティングは、ずっと前からある言葉だ。今どきの真っ当な会社で「うちにはマーケティングがありません」なんていうところはあまりないだろう。ではなぜ今、マーケティングなのか。マーケティングは一体、いつの間に足りなくなっていたのだろうか。

コペルニクス的転換、という言葉がある。太陽や星が回っているというのはこう見えるだけであって、実は動かないと信じて疑わなかった自分たちの足元の大 地、地球のほうが動いているのだという、天動説から地動説へのような大転換を言う。この言葉を天文学の専門領域から世界の森羅万象を語るためのコンセプト として取り出してみせたのは哲学者のカントだが、さらに世俗に下りてきてもらおう。

筆者が提唱したいのは「マーケティング天動説/地動説」だ。かつて企業は自分たちがつくるものの価値を自分自身で規定し、生活者に押しつけていた。

いわば天の上から価値あるものを下々の民に施してやる、という態度だ(図A)。「いやうちはそんなことはない」とおっしゃる企業の方もいるかもしれない。うちは「お客様第一だ」と。

だが本当に「お客様第一」というなら、価値はお客様が決める、と考えなければならない。いや、企業が好むと好まざるとにかかわらず、事態は既に進行している(図B)。

マーケティングは天動説から地動説へ
 

企業が商品そのものやコミュニケーション上で提示する価値についてのメッセージを素直に受け取ってくれる生活者はもはやいない。むしろ、自らの文脈で改変し、互いに提示しあい、再編成さえしてしまうのが実態だ。

企業は、生活者の価値文脈に取り込まれた自社の商品・サービスの姿を、耳をすまして聴きいれるしかない。「ソーシャルリスニング」といわれる対応で ある。こうして初めて、一人ひとりの生活者と等しい権利を持つ一個の参加者として、価値創造の共同作業の中に入り込むことができる。

 

2.「生活者主導経済」の到来

どうしてこのようなことが起こっているのか。

現代をとらえる切り口はさまざまだが、社会学的に比較的射程の長いコンセプトとして「高度情報化社会」がある。技術が成熟化した現代社会では、モノより もむしろ情報が価値を決定するという考え方だ。たとえば仮に18世紀が技術の世紀、19世紀が政治、20世紀が経済だとして、21世紀の100年を支配する鍵は何か、という問いへの1つの答えとして「情報の世紀」がある。

価値創造で情報が鍵になる現代。肝心の情報は、かつては明らかに企業が持っていた。

モノそのものの開発技術にしても、付随する生活文脈にしても、生活者が接することのできない情報の塊が企業の側にあり、提示するだけで人々は食いついてきた。筆者が属する広告業界の70年代から80年代の歴史を見てもわかる。

海外ロケ花盛りの時代、その場所の特有の産物、文化を紹介するだけで広告が成立した。世界の朝を紹介し続けたインスタントコーヒー。放浪の詩人や異能の 建築家など異国情緒あふれる文化を語ってみせたウイスキー。ヨーロッパや香港の食文化をドキュメンタリーのような映像で一般に知らしめた食品や調味料。誰も知らないことを紹介するだけで価値は生まれた。

そして、この頃から日本企業に浸透していったマーケティングの方法や組織のあり方は、今も本質的には変わっていない。

1ドルが300円以上し、毎朝の新聞と一家に1台のテレビが映し出すいくつかのチャンネル、固定電話がコミュニケーションの主な経路だった時代、企業は圧倒的な情報貴族であったのだ。

 

3.「生活者主導社会」の到来

だがもう、企業からの提案によって、自分の暮らしにとって価値あるものが何かを左右される生活者は少なくなった。個々の生活者が自分で情報に接して気ま まに選ぶことが、あまりに普通になったので実感しにくいかもしれないが、イケてるメイクやファッション、正しい子育てや家族のすごし方とは何かを、まるごと企業が教えていた時代もあったのだ。

筆者が属する博報堂では、情報流が大きく変わり価値決定権を握るのが必ずしも企業や組織とはいえなくなった社会を「生活者主導社会」と呼んでいる。この言葉を使ってさまざまな企業の方とお話をしながら気づいたことがある。

この話はとりあえず誰にも納得しやすいらしく「いやそんなことはないだろう」といわれることはない。だが一歩踏み込んで、自社の提供する商品・サービスのあり方、提供の仕方そのものを根本から見つめ直すのはやはり難しいということだ。

本気で生活者が自社サービスの価値を規定していると考えると、既存の組織や慣習に反し、都合が悪いことが多いのかもしれない。だが、これは社会の一般論ではなく、生活者の消費行動についての話だ。

従来のように性年齢といった送り手都合の固定的な塊でマーケティングターゲットをとらえることの意味が薄れている。適正な値段を企業がコントロールすることすら難しくなった。

どれも企業の営利や成長に直結する話だ。「生活者主導社会」の到来は、企業にとっては「生活者主導経済」の勃興といえるかもしれない。

企業にマーケティングは前からあった。少なくともあるように思えていたが、それは企業が生活者をリードする時代にしか通用しなかった。

企業経営にとって生活者=顧客との関係に本気で向き合わなければならない時代になったから、マーケティングが足りなくなった。本当に必要になったときに なって初めて、マーケティングが死にかけていたことに気づく。「マーケティング」をあいまいに、都合良く解釈してきたつけを支払わされている。

 

4.スマートフォン・ソーシャルメディア・ビッグデータの持つ意

近年、マーケティングシーンで目につくようになった言葉に「ビッグデータ」「スマートデバイス」「ソーシャルメディア」「プラットフォーム」といったものがある。どれもデジタル、IT(情報技術)に関連する言葉で、経験豊富なマーケターの中には、なんとなく嫌悪感のある人もいるかもしれない。

流行の言葉(デジタル業界では「バズワード」という独特の言い回しでなんとなく価値化した気分になったりする)に振り回されてマーケティングや経営がで きるか、という気分。ITで語れるマーケティングなど未だ端っこにすぎない。百歩譲って、若い担当にでもまかせておけばいい。

気持ちは、筆者もわかる。だが人には、新しくてわからないことは重要ではないと思いたいというバイアス、落とし穴があることは、成功経験があればあるほど気に留めておいたほうがいい。

虚心坦懐に見るならば、これらこそ「マーケティングの本来」を実現するキーワードであることがわかる。なぜか。それらはすべて、企業が生活者の毎日の態度・行動を知り、対話するための経路を示した言葉だからだ。

スマートフォン(高機能携帯電話)は、ボタンがなくなり画面が広くきれいになってアプリが使える便利な携帯電話、ではない。生活者の行動に24時間密着しデジタル空間に情報の扉を開け続ける窓だ。

彼、彼女たちは、まわりの人やできごと、TVなどメディアとの接触で喚起された興味を検索などの形でスマホに入力し、見たもの、感じたことをその場で発 信し、ともに移動し(位置情報を発信し)、購買までしてしまう。少し経験のあるマーケターなら、生活者のすべての行動に密着しデータを取り続けるという マーケティングリサ―チに魅力を感じたり、実際にトライしたりしたことがあるはずだ。ダイアリー型の調査やエスノグラフィ手法の一部を含めてもいいだろ う。

同時に、検討の場面や購買の瞬間にこそ、自らがベストと思える経験を提供したり、自社の優位な訴求点 を示せたりできたら、と。スマホはマーケターの見果てぬ夢を実現する。少なくとも前へ進める可能性を持っている。

 

5.サンプル調査を超えた未来を示す

ソーシャルメディアも、個々のサービスの特徴や活用の仕方ばかりにとらわれていると、本質はかえって見えにくくなるかもしれない。とりあえず、これまで見えなかった生活者同士のあらゆる会話、やりとりを可視化している、ととらえてみればどうだろう。

ビッグデータとは端的にいえば、生活者のあらゆる行動がすべて情報のビットと化していくことへの対処を表現するコンセプトである。生活者が何を考え、何 を判断し、どう行動しているのか。企業がそれを知り(傾聴し)、対話し、学び、自らも一員として行動し、価値を生み出していく。

これこそがマーケティングでなくてなんだろう。これらはマーケティングを変えているのではない。マーケティングの本来を実現しているのだ。

生活者の価値判断を知りたければ調査すればいい、これがマーケティングの世界では常識だった。マーケターが最初に勉強するのはリサーチであり統計解析である。

筆者も駆け出しの頃、徹底的に叩き込まれた口だ。マーケターはプランナーである前にリサーチャーでなければならない。今でも真実であり、調査の重要性は変わらない。

しかし敢えていえば、調査はすべてをカバーしない。調査を拒否する人の存在・調査に協力的な人のバイアスといった対象者の限定性、調査の形式で答えられ ることと対象者が本当に感じていること・行動していることとの乖離という方法論の限界、コストとの見合い、などの問題が存在する。

だが、調査できることだけをとりあえずの真実として見なし、マーケティングプラニングは進んできた。クチコミで本当は何がいわれているのか、購買時点で実際には何が起こっているのかを明らかにしきることのないまま、マーケティングは進んできた。

スマートデバイスやソーシャルメディアは、従来の状況を変えようとしている。いったんは手にしても使いようがなくてバシャバシャと捨てていた大量の情報に「ビッグデータ」と名前がつき、マーケティングの対象になろうとしている。

何も目新しいことを始めようというのではない。そもそもやろうとしてもできなかった、やりようがないから見て見ぬふりをしてきた対象が、データとして扱えるものとして浮かび上がろうとしているのである。

 

→後半へ(6.「下請けマーケティング」から、マーケティングの本来へ)
 

 


初出:「日経ビジネスオンライン」連載「価値創造責任者が企業を伸ばす」2012年6月25日
第1回 マーケティングは死んだのか
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120620/233591/