会社員が「新しい事業にチャレンジしたい」と思っても、それが現在の会社の事業とかけ離れた領域である場合は、転職や独立といった道を選ばなくてはなりませんでした。
博報堂DYホールディングスでは、広告会社にいながら、新たな領域に飛び込む社員を支える制度があります。 2010年に立ち上がり、今年で10年目を迎える博報堂DYグループ横断社内公募ベンチャー制度「AD+VENTURE」からは既に17の会社と若き経営者たちが誕生しています。
本制度の事務局を運営する大西雅之(博報堂DYホールディングス イノベーション創発センター)に話を聞きました。

社員を、会社を活気づける企画として生まれた制度

AD+VENTUREが発足する2年前にあたる2008年は、リーマン・ショックで世界中の株価が急下落し、日本経済も危機におちいりました。僕は博報堂DYホールディングスのIR担当部門にいたのですが、グループの売り上げは、4四半期連続で前年割れを示していました。
クライアント企業の事業予算縮小、プロジェクト凍結などが我々を直撃し、博報堂DYグループで働く人たちのモチベーションがどんどん下がっていくのを肌で感じた1年間でした。

その中で、現場を元気づける夢のあるような施策が求められ、いくつか検討をされた中に社内ベンチャー制度があがりました。
クライアントからオリエンをいただき、それを超えて良いものを提案するのは我々の得意とするところですが、「ゼロから何か新しいものを産み出す」経験って我々には実はあまりない、これからはそういった人材・チームを育成する環境が必要だよね、ということで「AD+VENTURE」は誕生しました。膠着する局面を打開するようなイノベーションが求められていたので、挑戦する人を、きちんと制度で支えようということですね。

挑戦者に、会社は何をしてくれるか?

挑戦者への支援としては「金銭的なこと」と「それ以外」に大別されます。
金銭的なことで一番大きいのは、最終審査を通過したチームには、1社当たり数千万円程度の出資金が渡されること。そして返済の必要はありません。いきなり多額の資本金を入れてもらって、会社ができるんです。
最終審査前の、1次審査を通過したチーム(ここ数年、10チーム程度選ばれます。)にそれぞれ100万円程度の調査費を出しています。事業計画作成のための有識者ヒヤリングなどの事前調査や、プロトタイプ制作に使ってもらえます。
社外で起業する場合、銀行はなかなか融資してくれないため、夢はあるけれども失敗のリスクが大きい。その点「AD+VENTURE」は、リスクは全て博報堂DYホールディングスが負った上で資金も返済不要なので、金銭的にも精神的にもずいぶん楽だと思います。
金銭以外のサポートとしては、一次審査を通過すると、本格的な事業計画策定に進むのですが、そこで起案者には“メンター”と呼ばれるガイドが2名つきます。ガイドは、グループ社員から選ばれた、投資や事業立ち上げなどのさまざまな分野のプロフェッショナル。事業計画に有益なアドバイスやヒントを与えてくれます。
さらに、事業化へと進むことが決定した際には、バックオフィスといわれる会社の事務・管理機能:いわゆる総務、経理、広報、法務など、博報堂DYホールディングスが持つリソースを使うことができます。会社にとっては必要不可欠な機能ですから、大きなサポートといえるでしょう。

喜ぶ顔も、苦しむ顔もみてるから、ぜったい成功してほしい

毎年70~80チームからアイデアが集まり、それが10チームぐらいに絞られ、さらに1社か2社が事業化されるという確率なので、審査通過は決して安易な道のりではありません。
過去9年で、17の会社をつくり、しっかり存続しているのは9社+1事業部。その中の4社+1事業部が黒字化しています。

この3年間、プレゼンに立ち会い、一次審査通過で抱き合って喜んでいる起案者たちの顔を見て、2次審査前も後もずっと寄り添う、という過程を繰り返してきました。
苦労も喜びもそばで見ているから、会社設立日前後に赤坂の豊川稲荷で成功祈願するころには、なんとしてでもうまくいってほしい、うまくいかせてみせるという、親のような気になっています(笑)。

忙しい人ほど最終審査に残る。~現場からの抵抗感も

応募してくる起案者はさまざまなタイプの社員がいますが、言えることは、いろいろな意味で人物として尊敬でき、仕事面でも優秀な社員が多いということです。
起案者のひとりに一度「君、忙しい現業の合い間にAD+VENTUREで事業計画を作る時間のやりくりどうしてるの?」と、聞いたことがあるんですよ。そうしたら「僕らは普段から複数のプロジェクトに取り組み、いろんなことを考えているので、それが1件プラスされただけです。同じですよ。」という答えが返ってきました。
そして、2次審査まで到達したチームって、そこで落選しても 「すごく、楽しかったです」と言います。ああ、彼らは時間をうまく使うし、取り組んだことを自分の成長の糧にしてしまう、しなやかさがあるんだな、と感心しました。
それだけ頼もしい人的リソースを手放さなくてはならない現場からは、まったく抵抗がおきていないかというと、そんなことはありません。最初のころは、小さなベンチャーを立ち上げることと、大規模な売り上げをあげる現業とどちらが大事なんだという無言の圧力(笑)的なものが、ディレクターや部署長クラスからありましたし、彼らの言い分も理解できました。自分もかつてはPR局の現場にいましたから。
しかし、中長期的な視点におけるグループとしての利点や、本人の成長にいかに資するかということを事務局からお話しし、現場を説得して回り、どうか理解してやってください、温かく送り出してやってください、とお願いしています。最終的にはみなさんから理解を得ています。

事業がうまくいかなくても、社員にダメージはない

特に最初の一年間は、新会社にとってはテスト期間で、この時期に伸びなかったり、市場としての見通しが立たなくなったりしたら、事務局の判断で、事業清算をします。
会社をたたむことになった場合は、起業者にはもとの会社に戻ってもらうことになります。
本人たちがどんなに頑張っても、事務局がうまくバックアップをしても、外部環境や競争環境の変化といった想定外な要因で清算する会社もあります。それは仕方のないことです。でも、企業の一経営者として得た経験や知識は、その後の彼らのキャリアにとっても間違いなくプラスに働くと考えています。それは事業化まで到達した人もしない人も、このAD+VENTUREにチャレンジした人すべてにいえることなんです。

博報堂DYホールディングスの社長であり「AD+VENTURE」パトロン代表の戸田裕一がこの制度を「甲子園」と呼ぶんです。出場した殆どすべてのチームが負けるから。
でも、負けたとしても、自身の中で「甲子園(AD+VENTURE)に出た」という自負は持てます。今後の人生で間違いなくプラスになる経験なんです。

9年の間の大きな変化

われわれ事務局も、応募してくるグループ社員も、大きくかわった9年間でした。昔は、公募開始を告知し、社内周知や拠点説明会は行うものの、どちらかとういうと応募を“待つ”体制でした。
今は、事業を考える上でヒントになるような講座を「オープンスクール」という形で、募集期間の7月・8月の2カ月間に8コマ程度開催しています。旬な起業家をスピーカーに招いたり、事業構造をゼロから考えるようなワークショップを実施するといった内容です。
また若年層の参加を促すために、20代を含むチームを対象に、3項目のシンプルな応募シートで応募でき、先着50名に奨学金を用意する「ヤングエントリースカラーシップ」という優遇施策も実施し、好評に推移しています。

応募するグループ社員側にも9年前と比べて大きな変化が起きています。ベンチャー自体が社会に定着してきたこともあり、知識や経験が以前とは比べ物になりません。こちらから働きかけなくても、事前に外部スタートアップイベントに参加して予備知識を得たり、起業家コンテストに応募してスキルアップを図ってから「AD+VENTURE」に臨む社員が増えました。
スタートアップの際の注意事項をきちんとおさえてから応募してくる。だから、既にある程度出来上がっているものがエントリー時で多くなっています。既に人脈も築いていたりして、単純にレベルが上がっています。時代の変化だなと思います。

制度が博報堂DYグループにもたらしたメリット

前述のように、挑戦したすべての「社員の成長」に間違いなく貢献していることでしょうか。
グループ横断的にみると、この数年間の間に新規事業を創造するとか、全くゼロイチで新しいものをつくるプロジェクトがいくつも生まれています。
博報堂グループのリソースを使って、大企業とベンチャー企業をマッチングしてイノベーションを創出する「QUANTUM(クオンタム)」、博報堂アイ・スタジオのクリエイターやエンジニアの有志が中心となり、ソリューションのプロトタイプを開発する「[HACKist](ハックイスト)」、テクノロジーを用いたプロダクト起点の事業開発に特化した博報堂のプロダクトイノベーションチーム「monom(モノム)」など、次々と生まれました。10年前は殆どなかったことを考えると、従来の広告領域を超越した新規事業をつくろうという土壌づくりを「AD+VENTURE」が果たしてきたといえるのではないでしょうか。すくなくともきっかけくらいにはなっている。
そしてこれは、クライアントの事業開発にも貢献できる人材をどんどん生み出しているということなのです。

クライアントからも「話を聞かせてほしい」というご依頼が

メディアから取材を受けるときがありますが、営業局を通じてクライアント企業からも「AD+VENTURE」って良い制度で、長続きしているようだからお話しを聞かせてくださいというリクエストをいただくこともあります。わざわざ、当社にご足労くだる方もいらっしゃいます。
メイン事業の規模、金額、係る人数があまりにも膨大で、イノベーション発想、などと言ってもそうそう自由にできないような文化をお持ちのクライアント企業が多いです。アイデアの社内応募をしても、事務局が望むレベルに達していないとか、応募数が極端に少ないなど、みなさん、課題を抱えていらっしゃいます。

成長をそばで確認できる喜び

最も喜びを感じるのは、人が成長していく様を見守り、支援することができることです。最初に会った時、かなり頼りない感じで大丈夫かな?と思っていた子が、競争を突破し、経営をみっちり学んで、実証実験フェーズを経て、社長として独り立ちしている。
すごく成長したなぁとか、応援者がたくさんついてきたなぁ、というのをそばでいつも感じることができるんです。
さらに数年後、その会社がグループ内の事業会社傘下に事業移管され、博報堂グループの営業事業成長に貢献し、事業シナジーを生み出しているのを知るときなどは、すごく喜びを感じます。

「社会的テーマ」を背景に設立される会社がある

現在の市場だけではなく、未来志向のものだったり、社会テーマに沿った事業を提案し、採用されるものもあります。
2016年に設立された「株式会社LGBT総合研究所」(以下、LBGT総研)がそうなのですが、これは大広の森永貴彦が5年挑戦し続けた末に最終審査通過に至った会社で、セクシャルマイノリティに特化したシンクタンクであると同時に、クライアントにLGBTに関するナレッジ、タッチポイント、マーケティングサポートを提供し、同市場の開拓・拡大を実施していく事業です。
この会社を設立するということは、博報堂DYグループはLGBTという社会テーマに真正面から取り組みますよという企業姿勢の表明です。現在LGBT総研は、大広グループに移管され、活動しています。

2019年、博報堂DYグループの一員となる方たちへ

「AD+VENTURE」は会社をつくることだけが目的ではなく、「会社をつくることにチャレンジする過程、および経営者になって得られたメソッドとかノウハウを学んでもらう」ことも主要な目的のひとつです。
チャレンジ精神と経営センスにあふれた起業家としての才能を持つ人材を一人でも多く育てたいんですね。つくった会社を存続させられたらそれが一番良いですが、うまくいかなかったら現場に戻り、再びクライアント企業やパートナー企業と共に新規事業をつくる、という選択がある。

2019年、博報堂DYグループの一員になってくれた人たちには、その起業家予備軍になるチャンスを全員持っています(※)。サラリーマン生活の中で、一度でも起業の経験をこのプログラムを通じて体験してほしいなと思います。この制度から、既に20代の社長も輩出しています!失敗を恐れず何度でも挑戦してほしいと思っています。

※応募資格は入社2年目から。

大西 雅之
博報堂DYホールディングス
イノベーション創発センター イノベーション推進グループ
グループマネージャー

1990年博報堂入社、PR局(現・PR戦略局)に配属。得意先の企業広報領域において主にPRコンサルティング業務を行う。2008年、ホールディングスの広報・IR室IR部に異動し、株式市場における広告・メディア業界の視点を学ぶ。2012年博報堂関西支社でPR部に異動、関西経済界のPRに従事。2016年から現職。