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【本屋B&Bによる『本屋 EDIT TOKYO』 トークイベント・ レポート】  ~矢内廣×嶋浩一郎~ 「ぴあ」誕生秘話について

2016.12.06
#グループ会社
博報堂ケトル代表であり、下北沢で本屋「B&B」を共同経営する嶋浩一郎が、11月1日「東京を編集する」をテーマに期間限定の書店「本屋 EDIT TOKYO」を銀座ソニービルにオープンさせました。「本屋 EDIT TOKYO」は、本屋「B&B」をベースにしながらも、「東京を編集する」をコンセプトにし、新たな取り組みを行う本屋です。
来年3月に取り壊しが予定されているソニービルその最後の5カ月、東京で活躍する編集者の方100人をお招きし、リレートークを行っていきます。

オープン初日の11月1日(火)、記念すべき第一回目のゲストとして登場したのはぴあ株式会社代表取締役社長の矢内廣さん。熱心な「ぴあ」読者だった嶋が、創刊の裏側とその歴史、現在の取り組みなどについてうかがいました。

■下宿先の6畳間から生まれた「ぴあ」創刊号

嶋:
東京を編集するといえばもうこの方しかいないだろうということで、「ぴあ」という雑誌を生み出された矢内社長に来ていただきました。
僕は1968年生まれで、実は小学校5年生だった79年から2012年までの全部の「ぴあ」を買い続けたヘビーユーザーです。簡単に「ぴあ」を説明すると、映画、演劇、アート、落語など当時のすべてのエンターテインメント情報が掲載されていた雑誌で、今でいうGoogleに匹敵する感じでした。僕にとって矢内さんはGoogle創業者のサーゲイ・ブリンとラリー・ペイジくらい憧れの存在ですから今日は本当に光栄です。
矢内さんが「ぴあ」を創刊されたときは、まだ中央大学の学生だったんですよね。

博報堂ケトル 嶋 浩一郎

矢内:
1972年で大学4年生でした。当時は学園紛争の熱気も収まりつつあって、70年くらいからはキャンパスにもある種の倦怠感が漂っていた。その結果出てきたのが若者文化。キャンパス内ではミニコミ誌が百花繚乱、フォークソングがブームになり、吉田拓郎や井上陽水などのシンガーソングライターが出てきます。サブカルチャーが一気に花開き始めた時期でしたね。当時TBSでバイトをしていた仲間や、映画研究会のサークル仲間と「ぴあ」創刊の準備を始めたのが71年の夏頃からでした。

ぴあ株式会社 矢内 廣さん

嶋:
もともと、東京のエンタテインメント情報を一覧して発信しようというアイデアがあったのですか?

矢内:
いいえ。そのまま就職してサラリーマンになるのが嫌で、何でもいいから自分たちで仕事をつくってしまおうと話していたのが始まりでした。僕は映画好きだから映画をよく観ていたんだけど、ロードショーで封切られたものは高いから、同じ作品を2本立て、3本立てで安くやっているところに行っていた。でも当時は「キネマ旬報」とか新聞の夕刊にちょこっと情報が載るくらいだったので、よく観逃していて。こうした情報が網羅されたものがあれば便利なんじゃないかと思って仲間に話してみたら、賛同してくれたんです。だったらアートも芝居も美術展も取り上げて、いつどこで誰が何をやって、何時から・・・という一次情報だけを羅列していこうということになりました。

嶋:
当時矢内さんは学生だったわけですが、編集は一体どこで?

矢内:
僕の下宿先だった中野坂上の6畳間に男が5人も6人も集まって、徹夜で編集していました。印刷所には前金で印刷代を払うことになっていましたが、日々の暮らしに精一杯な貧乏学生ばかりで、誰も印刷代のことなんて本気で考えていない。僕一人、どうしようかと悶々と考えていたら、偶然父親が下宿先を訪ねてきて。

嶋:
来年就職なのに一体何をやっているんだと(笑)。

矢内:
それで、実はやってみたいことがあるんだと話してみたんです。父親はたまたまその日、僕を卒業旅行くらいには行かせてやろうと思って、旅費の30万円を渡すために訪ねて来てくれたんですね。僕は本当に恐る恐る、そのお金を印刷代にさせてもらえないかと聞いてみた(笑)。そういうことならわかった、と言ってくれました。本当に大きなチャンスをもらったと思います。

嶋:
そのお金で創刊号が無事印刷できたわけですね。そして、そのおかげで今のぴあという会社も存在するわけですよね。お父様が現れたタイミングはほんとに偶然だったんですよね。
しかも、お父様が矢内さんが就職しないで雑誌を創刊するって話を受け入れたのもすごいですよね。
ところでずっと聞きたかったんですが、「ぴあ」というのはどういう意味なんでしょう?

矢内:
実は意味はないんですよ。当時の常識からいえば、雑誌タイトルは「月刊プレイガイド情報」というように、見ただけで中身がわかるものでなければいけなかったんですが、逆にそれだと将来にわたって言葉に縛られると思った。意味に拘束されないように、意味のない名前にしよう、中身を頑張ってつくっていけば後から意味性はついてくるだろうと考えたんですね。で、覚えやすくて短いほうがいいね、なんて考えているうちに“ぴあ”っと出てきた(笑)

嶋:
ぴあっと出てきたんですね(笑)。

■思いきってかけた1本の電話から  ■4年で達成した10万部

嶋:
無事印刷はできたわけですが、それを売るには書店に並べないといけませんよね。どうされたんですか?

矢内:
取次店にも持ち込みましたが、実績もないし最初から相手にされなかった。次に直販の交渉をしようと大手書店に持ち込んだんですがこちらもだめで。
そんなとき、紀伊国屋書店の田辺茂一創業社長のインタビュー記事が目に留まり、この人なら話を聞いてもらえるかもしれないと思って思い切って事務所に電話をかけてみたんです。すると自宅の方に呼ばれて。直接話をさせてもらった結果、とある取次店の社長を紹介していただけた。

嶋:
なんだかドラゴンクエストみたいですね(笑)

矢内:
日本キリスト教書出版販売という取次店の中村義治さんという方なんですが、中村さんも学生が雑誌をやるなんて無茶だよと言いながらも、120通もの書店宛ての紹介状を用意してくれて。最終的に89軒の書店に創刊号を置いてもらえることになり、1400部が売れました。

嶋:
そこからがスタートだったんですね。その後も自分たちで書店に持ち込んだんですか。

矢内:
当時月刊でしたが、編集を終えると印刷までに時間があるので、そこでどんどん営業していきました。沿線別に一駅ずつ手分けして書店を回って。やがて車付きのアルバイトを募集して、運んでもらうようにもなって。4年経つ頃には、89軒でスタートした書店数が1400軒まで増えて、部数は10万部を超えていました。その頃には取次店からも「うちを通さないか」という話が来るようになり、直販体制を終えました。

嶋:
すごいですね。皆さんの足で、4年で10万部を達成されたわけですね。

■自主製作映画もハリウッド大作も扱いは同じ、情報を選ぶのはあくまでも読者

嶋:
「ぴあ」はそれからどんどん部数を増やしていかれますね。及川正通さんがずっと描かれていた独特の表紙イラストもすごく印象的で。まさに「ぴあ」の顔でしたね。

矢内:
「ぴあ」は中身が全部モノクロで、ある意味無味乾燥な情報の羅列でしかない。でもその中身たるや、本当に豊かなものがいっぱい詰まっているわけです。その豊かさを表現してもらえるような表紙イラストだったと思います。

嶋:
それから、僕も読者として、メジャーな作品もマイナーな作品もぜんぶ平等に扱うという編集方針が素敵だなと思っていました。そういうフラットな視点が当時の若者に受け入れられたんでしょうかね?

矢内:
僕は何十億円かけたハリウッド映画だろうと、学生がつくった自主製作映画だろうと、1本の映画であることには変わらないと考えているんです。だからそれらは並列に扱おうと。あと、新聞などに取り上げられる作品は本当にごくわずか。実際はいろんな映画がたくさんあるんだということも伝えたかった。

嶋:
情報の平等性、網羅性などは、当時それを明確に言語化したわけではないけれど、方針としては矢内さんはずっとその価値観を大事にしていたわけですよね。情報は全部だしてあげるから、後は読者が選べばいいと。

矢内:
はい。だから映画評は一切載せない。その映画が面白いとかつまらないとかは自分たちで決めるものでしょう。メディア側が、これがいいから観なさいなどと言うのはおこがましいと思った。

嶋:
冒頭で、当時の「ぴあ」はまるでGoogleだったんではと発言したんですが、まさにインターネット的な発想ですよね。選ぶのはあくまでユーザーで、「ぴあ」は読者が情報を選びやすい状況を作ってくれた。さまざまなカルチャーが盛り上がる時代の中で、それを見やすく整理して、若者たちが自分で選びとれるようにした。そこが受け入れられたんでしょうね。

矢内:
そういうことでしょうね。デートプランの参考にも使われていたから、「ぴあ」のおかげで結婚できましたという人たちに何組も会いましたよ(笑)。

■100人以上の映画監督を輩出したPFF 、新しい才能は若者の中からしか生まれない

嶋:
「ぴあ」は誌面だけでなく、イベントも展開してきましたね。1977年、創刊五周年で「ぴあ展」というものを企画されて。

矢内:
東映の撮影所を丸ごと借りて、コンサートや芝居をやったり、映画を上映したりしました。その中でやった第一回自主製作映画展が、今年で38年になる「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」の原型です。

嶋:
自主映画をつくる人を応援するというのは、「ぴあ」のアイデンティティの一つになっていますね。PFFからは森田芳光監督や「舟を編む」の石井裕也監督、「私の男」の熊切和嘉監督など多くの監督が生まれていきました。

矢内:
ほかにも、黒沢清、犬童一心、園子温、塚本晋也、李相日など……挙げていったらきりがないですが、PFFで入選してプロになった監督は100人を超えますね。次の時代を担う新しい才能は、若い人たちの中からしか絶対に出てこないんですよ。ビジネスにはなりにくいフィールドだけど、そこは誰かが守っていかないといけない。そこから新しい芽が出てきて、やがて才能が形になっていくわけですから。

嶋:
その活動を続けてきたことは本当にすばらしいですね。そしていまは震災復興活動としても、東京、いわき、仙台、釜石にホールをつくられて、エンターテインメント事業を展開されています。

矢内:
4つの劇場を「Power Into Tohoku!」の頭文字をとってPITと呼んでいます。これらを活用することで、東京にいる人もエンターテインメントを楽しみながら復興支援に参加でき、経済性も回って継続できるようにしています。

嶋:
そろそろ終盤なので最後の質問を。「EDIT TOKYO」にちなんで、矢内さんが東京で一番好きな街を教えてください。

矢内:
学生時代によく行っていたのは新宿で、新宿に出やすい場所にアパートも借りていました。当時、地元のいわきで映画を観ようとするとチャンバラ映画しかなかったのに、東京ではゴダールの「勝手にしやがれ」とかを上映している。それを新宿で初めて観て衝撃を受けました。唐十郎の状況劇場が花園神社で紅テントを張っていたり……。毎日がとても刺激的でしたね。

嶋:
「ぴあ」が生まれた中野坂上もそうですよね。丸の内線でも徒歩でも新宿まで簡単に行けますから。
今回はほかにも、矢内さんがおすすめする東京の本を2冊紹介していただいたので、皆さん「本屋EDIT TOKYO」の方で手に取っていただければと思います。
本日はお忙しいところ、貴重なお話をどうもありがとうございました!

【矢内さんおススメの“東京の本”】

『映画館へは、麻布十番から都電に乗って』(角川文庫)

著者は元東宝社長の高井英幸さん。
麻布十番から都電に乗って日比谷、銀座まで映画を観に行っていたという子ども時代からこれまで、何を観てこられたかが綴ってある。
仕事を終えて帰宅すると、必ず1~2本は映画を観るというくらい映画好きな方。映画ファンならたまらない内容だと思います。(矢内)

【絶版】『TOKYO 1969』(日本経済新聞出版社)

残念ながら絶版ですが、ぜひ触れ置きたくて。著者は立川直樹さん。
1969年の東京は今とはまったく違う風が吹いていたのです。著者の視点から60年代のスピリッツを感じとることができます。(矢内)

『東京最高のレストラン』(ぴあ)

手前味噌で申し訳ないですが、ぴあから出している本を。
ミシュランをはじめグルメガイドはたくさんあるけど、これは小さな食堂からレストランまでの500軒を、本当に食通の人たちが記名入りで点数をつけてランキングしています。
毎年更新されますから、食べ物好きな人には本当におすすめの一冊です。(矢内)

下北沢の「本屋B&B」での実績をベースにしつつ、「東京を編集する」をコンセプトとして新たに銀座にオープンした『本屋EDIT TOKYO』。2017年3月まで営業していますのでぜひ、お越しください。

■プロフィール

矢内 廣

1950年福島県いわき市生まれ。72年、中央大学法学部在学中に「ぴあ」を創刊。74年にぴあ株式会社を設立し代表取締役社長に就任。84年、「プレイガイド事業「チケットぴあ」を」をスタート。2003年東証一部上場。11年に雑誌「ぴあ」を休刊。12年、エンターテインメント業界が横断的に参画する東日本大震災の復興支援ボランティア活動団体として一般社団法人チームスマイルを設立し、代表理事に就任。 社団法人日本雑誌協会理事、日本アカデミー賞協会組織委員会委員、公益財団法人ラグビーワールドカップ2019組織委員会顧問、財団法人新国立劇場運営財団評議員などの公職を務める。

嶋 浩一郎

1968年東京都生まれ。93年博報堂入社。2002年から04年に博報堂刊『広告』編集長を務める。04年「本屋大賞」立ち上げに参画。現在NPO本屋大賞実行委員会理事。06年既存の手法にとらわれないコミュニケーションを実施する「博報堂ケトル」を設立。カルチャー誌『ケトル』の編集長を務める。12年東京下北沢に内沼晋太郎との共同事業として本屋B&Bを開業。編著書に『CHILDLENS』(リトルモア)、『嶋浩一郎のアイデアのつくり方』(ディスカヴァー21)、『企画力』(翔泳社)、『このツイートは覚えておかなくちゃ。』(講談社)、『人が動く ものが売れる編集術 ブランド「メディア」のつくり方』(誠文堂新光社)がある。

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