深谷 信介

スマート×都市デザイン研究所長 / 博報堂ブランドデザイン副代表

「24代目で、しまいですわ」


<写真1|秋田新幹線>

初上陸エリアは、なにも調べずに伺うというこの身勝手なわたしの掟は、時に自身を想定外の先へも導くことがあります。
ここは秋田・横手盆地。大曲で進行方向が逆さまになる(スイッチバックですね)秋田新幹線から乗り継ぎ湯沢駅に降り立ったのは、新国立競技場近くでここの話を軽く伺って半年ほど経った夏。180cmをゆうに超えるかくしゃくとした老紳士と駅で合流。麦わら帽にストールそしてGパンというその出で立ちと佇まいは間違えなく、まちの重鎮です。

「あの山の向こうに、お連れしますよ」

すこし霞んだ目線の先にはちょっと小高い山並みが左の端から右の奥まで、淡く柔らかく見えています。ここからどのくらいはなれているのだろう。少し緊張したわたしを乗せて、平らな大地をほんとうにゆっくりとクルマを走らせていきます。

「この道は鉄道だったんですよ、昭和42年までかな。祖父がね、作ったんですがね。その後土地をまちに寄付して、それが県道になり、いつのまにか国道ですわ(笑)」
昔からまちがいなく往来の要だったんだな、この道は。でなくちゃ国道にはならんもんな。

「あの山の上まで鉄道を走らせようと、祖父は本気だったようです。まちのためには鉄道が絶対必要だと。あっ、一時木炭バスも走らせてましたね」

鉄道が通り高速道路が開通し新幹線がやってくる。まちと都会は近くなりより豊かになるはずが、思い立ったらいつでもその地を離れることができる魔法の扉になった。便利とは時に予期せぬ事態を生みだしていく。
日本一出稼ぎの多いまちとして一躍有名になったここ羽後町田代は、あまりの雪深さもあってか、あっという間に担い手が、若者が、居つかなくなってしまった。このまちをどうにかせねば、自身の家をどうにか続けていかねば、そんな気持ちが現当主をこの地に引きよせたのだろう。女系が三代継いだ後、23代・24代で男系が、珍しく末っ子が家を継ぐということに。30歳過ぎのとある日まちに戻ってから、どれほどの月日が経ったことか。笑顔で語る当主の瞳から、揺るぎない強さが伝わってくる。車のステアリングを握りながらとつとつと語る物腰の柔らかさが、多くを物語るのです。

<写真2|羽後町雪景色>

山あい谷あい縫うように走る七曲峠を抜けると、言葉にならない不思議な感覚が立ち上がってくるのがわかります。わたし、すこし感じるんです。そこには、夕暮れ時の日差しのなか、広々とした天空の大地が、田畑が、この地域の独特の質感・気配とともに拓けてきました。
日本の「奥」はスゴイところばかり。いつもいつも感じることです。

「今日は遅いので、うちで夕食の用意をしてありますよ」

ちりひとつない床の隅々までピカピカに磨き上げられた古民家住宅は、正直はじめて。ご当主自ら育てたお米や野菜の数々、目の前の川で釣り上げた魚たちが、食卓いっぱいに並べられてのお出迎えです。お食事を頂きながら、まちのお話を、鎌鼬(かまいたち)の話を、お腹いっぱい伺います。つむじ風にのって現れ、人を鋭く切りつけるらしいかまいたち。なのになぜか痛みもなく血も出ない。そんな魔風に、すでにもう何度も出会っているんじゃないか・・・そんな思いを巡らしながらも、この上なく幸せな時間はあっという間に過ぎるもので、気づけば外は美しすぎる漆黒の闇。そのなかをゆっくりと今晩の宿まで移動し、伺ったかまいたちの話を反芻してみるうちに、ついうとうとと眠りについてしまいました。

<写真3|宿 格山>

翌朝。
最近はかなり目覚めが良くて、そとはまだ薄明かり、白々と夜が明けていく頃、ガラガラっと扉が開く音がしました。地元のおかあさんがわたしのために朝食の支度をしてくれます。奥ゆかしいこのお母さんが、ひとつまたひとつと器を運び、お味噌汁とご飯を用意してくださいました。

<写真4―1左|宿 格山> <写真4―2右|宿 格山 朝食>

「こんなもんしかありませんが・・・」
今朝、陽の登る前からおかあさん自ら畑で朝摘みした野菜を、素材のよさを活かしてそっと手を加えてくれた品々。朝から涙がでそうなくらいもったいないほどのおもてなし。自然を食べているという実感、この土地をいただいているという感謝。
とれたてのものしかない、という贅沢。
とれたてのものしかない、という普通。
手づくり100%の朝食のなか、食卓の袖でおかあさんはいろんなお話をしてくださいました。こころまでいっぱいになる2時間、最後にトマトのデザートをいただいたころ、当主のご登場、今朝はお孫さんとスカイプやっておられたそうです、ハイカラです、普通に先端です。

「ではご案内しますよ」

振り返った目前にある大きな大きなお屋敷こそ、今回伺おうと思ったところ。山裾に立つこのお屋敷はもともとは当主のご自宅だが、いまはまちの総合交流促進施設になっている。


<写真5|旧長谷山邸・全景>

木造の母屋と土蔵の鞘上部に乗せた高楼の離れからなる旧田代村の地主長谷山家の邸宅は、床面積約900平方メートル。うちの何十倍もある。「長谷山の三階建」と言われ地元のシンボルである土蔵高楼は、特に圧巻だ。
船枻(せがい)造りと呼ばれる重厚な外観と梁を幾重にも組み重ねる本小屋の梁組内部。書院風座敷飾り、細やかな組子細工など贅をつくしたこだわりを感じさせる建物。いくつも構えられている玄関は、ひとの位や用途によって使い分ける。奥には別棟の産婆スペース。有名な書がそこここにあり・・・東京に灯って数年ののちこの家を灯したガス燈、郵便局のはじまりとなった、ユニークなかたちをしたこの戸口を構えるお屋敷前には外国製のクルマも・・・。

<写真6|旧長谷山邸母屋内部 (写真3点)>

世界の最先端とまちの最高峰を備えていたここ旧長谷山邸は、山裾に建つこの巨大な古民家。まちを見守るお城のようであり、外とつながるゲートウエイであり、まちのひとの拠り所だったにちがいない。


<写真7|旧長谷山邸高楼(写真3点)>

「ここから見える山・田畑すべて、長谷山のものだったんですわ」

当主が結婚式をあげた3階の高楼お座敷は、これもまた初めて見る継ぎ目のない一枚の長い畳が何枚も敷き詰められていた。眼下に広がるこのまちを一望してみて、またもビックリ。見える景色が広すぎて、いったいどこまでなのかがわからない・・・。地主とはこういうものなのだ、と初めて実感が湧いてくる。


<写真8|細江英公写真集「鎌鼬」より>

高楼から1つ階を降りるとその下は土蔵になっていた。えっ、こんな構造になっているんだとまたもビックリ。土蔵を守るために、周りを木造で囲む。こちらの地域にある建て方なのだそうだ。この二重構造が目を引く、こころを切りつける。

「このなかに美術館を作ったんですわ、こじんまりとしたもんですが・・・」


<写真9|鎌鼬美術館>

鎌鼬美術館。あの伝説の舞踏家土方巽が世界的評価を受けた写真集「鎌鼬」のほとんどはここ羽後町田代で撮影されました。土方は、何の前触れもなく、米の収穫で忙しいまちの人々の前に突如現れ、このまちを舞台にあらゆるところで舞い踊り、なにかを切り裂き、切り取り、その瞬間瞬間まちに笑顔をうみだし、度肝を抜き、風のように去っていったのでしょう。まさにかまいたちのごとく。
世界を轟かせる前衛芸術までもが、誰もが離れていく奥深い地域で生まれ、感動の連鎖を創り、人間の新たな世界を広げていくのです。

「平等っていうのは、日本で4回ほど定められているんです」
「えっ」
民を束ねるひとは、平等という仕組みをつくる。古くは聖徳太子の時代から。田畑を与えられ、農作に勤しむ、木を育て山を守る。いつしか一所懸命働くひととそうでないひとが生まれる。さぼるひとは年貢が収められなくなり、働くひとからお米を借りる、お金を借りる。積もり積もって借金が返せなくなり、土地まで手放してしまう。ひとが定めた平等は、ひとびとの手で切り裂さかれていく。
この村をこの集落を収めてきた代々の当主の思いを受け継ぎ、いまできることを探り、当主は家を閉じることにした。自らの家を手放し町に住民に拓いた。そこを人が訪れる場所へと変換していくことを願って、つぎの平等を生み出すのだろうか・・・
悠久の時間が流れるなか、ホンの一瞬で過ぎ去る個々人の時間、何をし何を残すのか?何を切りつけてしまうのか?

所変わって、東京は新国立競技場建設地のすぐそば。
チョキチョキ
チョキチョキッ
髪を切ってもらっているのに、そういう気がしない。
わたしが通う美容師さんも、じつは末っ子。そして高楼にある。

『鎌鼬美術館、あす開館—羽後町』
こんな新聞記事を拝見して半年も年月が過ぎている。当時は<かまねずみ><はごまち>って読んでしまったっけな笑
「父は元気でしたか?」
久しぶりに里帰りするんだそうだ。
そんなお父様のお名前は、信介さん。

かまいたち、どこまですてきな魔風を吹かせているんだ。
かまいたち、どこまでもすてきな魔風を吹かせているんだ。

次回は、ふらっとです。

にっぽんトコトコッ
ただいま161トコトコッ

*写真2は阿部久夫さまより、写真9は細江英公写真集「鎌鼬」よりご提供頂きました。

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