今年5月、博報堂を母体とした新たな人材育成機関「博報堂生活者アカデミー」が、本格開講しました。
主宰を務める嶋本達嗣が、「日本の人事部HRカンファレンス」(5月19日)にて、『人材育成は、スキルから「根本知」へ。全人格で発想するイノベーション人材をつくる』と題した講演を行い、当アカデミーの設立背景、教育プログラムについて説明を行いましたので、その要旨をご紹介します。
時代認識と立脚点:人間起点のビジネス創造を。
●イノベーションが、揺らいでいる
まず、我々がこの教育機関を立ち上げた経緯をお話しますが、ひとつ問題提起させてください。それは、「今、イノベーションが揺らいでいるのではないか」という我々の問題意識です。『科学技術白書』によると日本は、世界で2位の研究開発国であり、多額の費用が新たなイノベーションを生み出すために投じられています。しかし一方で、製造業における研究開発費のROIは年々下降しており、研究開発費を投じても利益を生めない国になっています。識者の分析は大きく2つ。出来上がってくる製品・サービスが社会状況、顧客ニーズの両方に不適合だというのです。おかしくないですか? 社会や顧客の生活をよくしようと思って製品・サービスを生み出しているはずなのに。今までに無い激しい変化に晒されている企業にとって、製品開発は、業績起点・競争起点・効率起点になり、「イノベーションは、人々の新しい発展に寄与する。そして、社会価値を生産する」という本来の目的を見失っているのです。
●「手段」の競争が加速する中、「目的」が置き去りになっている。
どんな物事にも、目的と手段があります。では、事業の本来の目的とは何でしょうか。それは、世の中に新しい豊かさと幸せをつくることです。すべての製品・サービス・システムはそのために存在し、企業や組織・団体はそのために資源と技術を事業手段として活かしてきました。でも、今の時代、手段のほうが先行してしまっているのではないでしょうか。そして、目的がかすんでいる。新しい幸せ、新しい豊かさをどう届けようかという議論が薄くなってしまっている。手段が加速する中で、目的が置き去りになっているということを我々は感じます。
●人間起点のビジネス創造が求められる時代へ
暮らしの創造に寄与しなければ利益が生まれるはずはありません。もう一回、人間にとって本来あるべき幸せは何か、を起点に根底からビジネスを再創業していく力。それがないと成長はないのではないか。そのために人材育成の場をつくり、人間起点のビジネス創造力を育みたい、というのが博報堂生活者アカデミーの立脚点です。実は、私は、きちんと目を凝らして見ると真のイノベーション、大きな変革は一人一人の人間の思いをドライバーに生活の中で生まれていると思います。
皆さんにここで一つのケースをお話ししたいと思います。父親としての思いがゲーム産業にイノベーションをもたらしたケースです。IngressというGoogleが開発したゲームアプリで、陣取り合戦ゲームです。見知らぬ同士が連帯を組みながらリアルな場所の中で陣取り合戦をやっていきます。全世界で1,400万ダウンロードが記録され、平成26年度文化庁のメディア芸術祭のエンターテインメント部門で大賞を取りました。これは非常に成果の高いイノベイティブなゲームの開発であったと言われていますが、一番の成果は、人類を1億5,000万km歩かせたことなのです。開発したのはGoogleの副社長であり、ナイアンティック・ラボの創始者であるジョン・ハンケ氏です。ジョン・ハンケ氏がこのIngressというゲームを世に出したモチベーションは何だったか。それは引きこもりの自分の息子を外に連れ出すためには歩かせるゲームを作ることでした。このイノベーションは職業的事情から生まれたのではなく、父親である一人の人間としての思いから立ち上がっていますね。実はこういうものが本当に社会価値を創造するものなのではないかというのが我々の信念です。
●全人格で発想する人材を育む。
我々は働きながら「イノベーションを起こせ」と言われる。私も、周囲や上層部から「変革を起こせ」と言われます。そのときにどこでそれを考えるのか。
ちなみに、人にはいろいろな人間側面があります。私自身の側面を分解してみました。私、今56歳です。当然、会社員としての私として生きています。でも、私は娘を持っている父親です。また、私は今大田区に住んでいてそのマンションの理事をやっています。職業柄、広報部長をやっています。私自身は、お酒は結構好きなのですけれども、近所に店頭でお酒を飲ませる酒屋さんがあり、週末になると、地域の人たちと集まって飲んでいます。私、趣味は週末料理人です。私の人生においてすごく影響を与えたのは、70年、80年代のロック。そして、82歳になった父の介護をしている。日々、消費者としていろいろなモノやサービスの消費もしている。これだけの自分がいるのですね。
「イノベーションを起こせ」と言われたときに、どこで発想したらいいのでしょう。往々にして、イノベーションは、企業で働き、企業から命じられているのだから、会社の会議室の中や、パソコンのデータの中から起こすのだと思いがちです。でも、そうでしょうか? 全人格で発想するイノベーション人材というワードが講演タイトルに入っていますが、私たちの暮らしている24時間と、毎日のビジネスは、同じ地平、地続きだというのが我々の考え方です。
例えば、私が娘の父親としてこんな時代を娘に残してやりたいと思って仕事をすれば、毎日の暮らしと私ビジネスはつながっていきます。マンションの理事として組合ボックスに投げ込まれる大量の投書から、今の社会課題を発想することができます。
酒屋店頭の飲みの場で、近所の工場経営者達が真剣に語り合うビジネス談義や後継ぎ問題から、地域創生の在り方のヒントを得る。あと、親の介護で出会うケアマネさんとかヘルパーさんと会話すると、高齢単独世帯という社会課題が私に沁み込んできます。それを背負って私は会社で仕事をするのですね。消費者という立場にいるときは、モノやサービスに不満もありますし、店員さんのリコメンドから自分の欲求に気づくこともあります。全ての人間側面がビジネスとつながっているんです。
イノベーションを起こしていくためには、生きている自分として、全人格で発想するということが大事なのではないか。そうした人材を我々は育てたいと考えています。エンジンは生きている自分です。
学びの基盤:生活者発想フレーム
●生活者発想フレーム
多くの「職能」や「スキル」は、課題別、作業別に装着するもので、そこからイノベーションは起きません。生活者アカデミーが大事にしていることは体質を変えていくことです。我々、生活者アカデミーは「発想体質をつくる」ことをスローガンに掲げました。そして、オリジナルな発想をするための学習フレームワーク「生活者発想フレーム」を開発しました。「生活者発想」は、我々の母体である博報堂のコーポレートフィロソフィー(企業哲学)です。我々は、生活者発想でクライアントのマーケティングコミュニケーションのお手伝いをしていくのだということを1981年に宣言し、以来35年間この「生活者発想」を背骨に様々なクライアント企業のパートナーとして仕事をしてまいりました。
生活者発想というのはどういう考え方なのか。まず一番大事なことは、「人間をまるごと観る」ことです。企業は顧客ニーズを知らなければいけません。
例えば、缶コーヒー・メーカーの方は、「缶コーヒーと缶コーヒーのユーザーのことがわかればいいよ」とおっしゃるかもしれません。でも、本当にそうでしょうか? 缶コーヒーのユーザーが仕事場でどんなストレスを抱えているのかとか、休日、仲間たちとどんな遊び方をしているのかということと、缶コーヒーのマーケティングは関係ないのでしょうか?関係ありますよね、そういう日常の場面で缶コーヒーは飲まれているわけですから。
人間が生み出している情報はたくさんあるのです。それは日常の光景からビッグデータ、行動ログまで色々ありますが、そういう多様な情報を編集・結合していく。そうすると、その人が本当は何を求めているのかということが見えてきます。それを掴みとって、未来の生活ビジョン―今人々はこんな生活に向かいたいんだ、とか、こんな生活を提案したらみんなもっと豊かになれるんだ、ということを描き出していって、そこに求められる商品・サービスというものをそこに置いていくというのが、生活者発想という考え方です。
生活者アカデミーでは、この基盤に基づいて授業を進行していき、最終的には、これからの生活(=未来の生活ビジョン)を受講者にアウトプットしていただきます。
そのため、我々は発想のための多様な素材・手がかりとなる発想資源を、受講生に提供します。それにはデータもありますが、例えば、今朝の通勤電車の中で見た光景や、一人一人の中にある記憶も貴重な発想資源であり、手がかりは多様なほど視点を豊かにします。定量データ、定性データ、人の生の声、そのすべてがソース・ニュートラル、すべてが発想の素材になるのです。
集まった素材は受講者全員でシェアした上で、それぞれを結合してもらいます。例えば、幾つかの情報の中で、これは未来を指し示しているシグナルだと思われるものを抜き出していく。あるいは、幾つかの事象やデータを並べて見ていくと、その根底にこういう欲求があるよね。だから、こういうことが起きているんだ、という事象の意味を発見していく。あるいは事象と事象の間に流れている時代の底流とか、潮目(変化)を発見していく。そして、だったら、こういうモノやサービスが必要だという未来にあるべきビジネスや環境を起案していく。
つまり、素材を新結合しながら、周りを回っていくというものです。我々はそれを「思考のトラック」と呼び、このトラックを回っていただくようなトレーニングプログラムをご提供していきます。
この感受し、発見し、そして、読解し、起動するという周回の中で、これから必要になる生活モデルに焦点を絞っていきます。我々の授業をイメージ図で表すとすると、「ぐるぐるしている」ことに他なりません。多様な素材を目の前に置いて、結びつけて、結び直して、で、真ん中に何が見えるか。それは未来です。
我々のやっている教育プログラムは、「ぐるぐるポン」だ、と内部的には言っています。ぐるぐると回りながら未来のアイデアをポンと出す。大事なことは、何回ぐるぐるできたかというその執着です。それがポンという未来のアイデアの飛距離を高めるのだと思います。ですので、我々は受講者に、素材を何度でも結び直してください、それから、人と対話して考えをぶつけ合ってください、とお願いします。そして完成したと思っても、これが自分の描いた未来で、そこに住む自分は幸せになっているか考え、つくり直してみる。そういった「創造的粘着性」を養う授業をご提供したいと思っています。クリエイティブ・タフネスを持って考え抜けなければ、深くて強いアイデアは生まれないからです。